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体感中国語94―お天気が気になる、だから状語は先だ

日英中の基本的語順については体感20、77などで書きましたが、もう一度整理して掲げることにします。

日本語 「だれが/なにが、いつ・どこで・どのように何を、どうする
       S + α /O+         
英 語 「だれが/なにが、どうする、何を、どのように・どこで・いつ
        S + + O/C + α      
中国語 「だれが/なにが、いつ・どこで、どのように、どうする、(こんなふうに)何を」 
         S + α + O    ≪追記≫中国語の(補語)は述部の一部と考え、に含めました。


この3つの言語を並べて日本語と中国語の共通点はなにかと聞かれたら、α部分がいずれもの前に来ているということでしょう。つまり日本語の連用修飾語で、目的格のニ格、ヲ格を除いた部分と中国語で言う状語の部分がいずれも述部の前にあるという点です。

それでは英語と中国語の共通点はというと、それは日本語のニ格、ヲ格に該当する目的語(中国語では賓語)がいずれも動詞述部の後にくるという点です。

これを逆にいうと同じことですが、日本語と中国語の相違点は日本語のニ格、ヲ格は連用修飾語として述部の前にあるが、中国語は賓語という独立した文法成分として英語のように述部(この場合は動詞のみ)のあとにくるという点です。

英語と中国語の違いはα部分が英語はつけたし、オマケなのに、中国語は必ず述部よりも前にくるという点です。また、英語の補語は中国語では賓語に含まれるということです。

このα部分というのは「いつ・どこで、どのように」という部分です。つまり、時間と空間を含む英語界の一部でいわれている副詞の世界のことです。


そこで私が前からひっかかっている疑問というのは、どうして日本語や中国語は副詞の世界を先に言いたがるのか、どうして欧米人はそのようなものはオマケと考えるのか、ということです。

私は高校で世界史は履修しませんでしたし、その後もカタカナ名を苦手としてきたので、西洋史の知識もありません。アメリカはハワイまで、ヨーロッパは8月に10日ほどパリとアルプス周辺に滞在しただけで、かの地の風土や気候についてもわからないことばかりです。

といって東アジアについて正しい認識を持っているかどうかも疑わしいのですが、東アジア地域はモンスーン地帯であり、そこに生活する人々はもともと農耕が主だったでしょうから、東アジアの民は自然現象に支配されているという感覚が強いのではないのか、ヨーロッパの人たち以上にまわりの自然に関心を待たざるを得なかったのではないのか、だからではないのか、勝手にそのように推測・想像しているのです。


そこで「天地人」という言葉があったと気づき、どういう意味かと思って『漢和字典』で引いたのですが、そこには「天地人」という単語はありませんでした。でも、、『易経』に「夫大人者、與天地合其德、與日月合其明」(それ大人は天地とその德を合し、日月とその明を合す)という文例があり、昔の人は「大人物というのは天地日月といった大自然と合体したような人物のことである」と考えていたことを知りました。

また、『老子』の書き出しは「天地者萬物之逆旅」であることを知り、それを引用した李白の文章、松尾芭蕉『奥の細道』の冒頭文の典拠ともなった李白の名文、「夫天地者萬物之逆旅、光陰者百代之過客、而浮生如夢、為歡幾何。古人秉燭夜遊、良有以也。」も載っていました。さらには「桃花流水窅然去、別有天地非人間。」という李白の詩句のあったことをも思い出させてくれました。

犯罪の多い昨今、ときどきですが、「天網恢恢疎不漏」という語をテレビでおっしゃる方も見受けますが、それに似た言葉である「天知る。地知る。我知る。人知る。(天知地知我知人知)」の語句も載っていて、こんないい故事、今どきの若い人たちは果たして知っているのだろうかと気がかりになりました。

さらに「天」についてはわが国神話も無関係ではないと思い至りました。

もうかなり前のことになりますが、宮崎県の高千穂峡に行ったとき、天の岩屋とかいうのがあって、日本人の始祖であられる天照大御神のお話をお聞ききました。私たちの祖先は高天原というところから天孫降臨して、熊襲、隼人の蛮族を征服して大和の国に至ったという話を伺いました。

そこで霧島山系の高千穂の峰に登ったとき、天の逆鉾の前で写真を撮ったりしました。そういえば高千穂の峰のすぐ横に韓国岳という1700メートルもある山がありました。高天原から来られた神々が韓国が見えると行って望まれたので、その名がついたのだそうです。とすると、私たちの祖先は韓国から来たということになるのでしょうか。


聞くところによると、旧約聖書にも天地創造の話があるのだそうです。読んでいないので、どんな内容なのか、日本や中国の「天地」に関わる話とは違うのか、似たようなものか、まったくわかりませんが、天地自然に関する認識は東洋と西洋とでは、なんとなく違う、そんな感じが私にはしているのです。


話がかなり脱線しましたが、「日本語や中国語で何かを語るときに時間や空間に関することをどうしてはじめにいうのか」という私の疑問、その解答としては「そんな疑問は解答のしようがない。ただただ偶然なだけで、特別なわけなどあるはずがない」というのが正解なのかもしれません。でも、暇に任せてついついそんなくだらないことを考えてしまうのです。


ただ、以上のようなことを考えたせいか、日本語や中国語はテンスに無頓着だとよくいわれる理由が、私にはわかってきたように思うのです。その理由とは以下のようなものです。

日本語や中国語で何かを語るときに、テンスが必要なら、はじめにいつどこでという時間や空間を明らかにいってしまう。話者も聞き手も英語のようにいまここにこだわることなく、話題の中の時間や空間の中に入り込んでしまう。だから述部でいちいちテンスを気にする必要はないのである」。


この理由付け、やっぱりこじつけでしょうか。
by damao36 | 2008-10-02 09:37 | 中国語 | Comments(0)
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