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体感中国語88―中国語に受身文が少ない理由

森田良行さんの『日本人の発想、日本人の表現』(中公新書)を読んでいたら、「受身的姿勢に日本語と中国語との違いを見る」という項があり、その違いの一つの例として、「病気見舞いに訪れた見舞い客の慰めの言葉」を取り上げていました。

中国人が病院に見舞いに出かけ、入院している人への慰めの言葉として、こんなふうな言い方をするのだそうです。

「やあ、顔色が良くないね。会社のことは私たちでちゃんとやっているから、安心してゆっくり休み給え!」

それに対して、日本人はどうなのかというと、相手をはげまし元気づけようとの心遣いから、以下のように言うに違いないとのことです。

「や、思ったより元気そうじゃないか。君が入院したと聞いて心配したんだ。それに君が休んでいると仕事がとどこおって、皆、困っているんだよ。早く良くなって僕たちを安心させてくれ給え!」


この見舞いの例を挙げて、森田さんは以下のようにおっしゃています。

「たったこれだけの例で結論めいたことをいうのは危険かもしれないが、以上二つの見舞いの例を比較しても、対象である相手中心の客観的判断に徹する中国の見舞い方式に比べ、日本人は、同じ他人の病欠に対しても、それを自分と結び付け、自分らの身に降りかかった問題として受身的にとらえようとする。その結果、自分側中心の判断や意見として述べる姿勢が生ずるものと考える。」(p.134)

また、「雨に降られた」とか「子に先立たれる」、「従業員に休まれてしまった」という日本語特有の“自動詞の受身”の例を挙げて、以下のように説明されています。

「自分とは無関係な『雨』や『子』『従業員』のうえに生じた予期せぬ現象を、己に降りかかった災難として受容する心理が、受身形という“受けの姿勢”を取らせているのである。……(このような“迷惑の受身”は、)他者のうえに生じた予期せぬ現象や行為を己の側から受身的にとらえ、まごつき慌てる心理的な態度といえるであろう。それだけにドライな客観的叙述と違って、その折の己の感覚に飛び込んでくる外の世界の出来事として、はなはだ具体的かつ臨場感に富んだ体験的叙述となるのである。それが日本語だといってよい。」(p.135)


また、森田さんのもとで日中両語の受身表現の対照研究を進めた中国人大学院生の研究では、「同じ文章でも日本語の原文対中国語訳では圧倒的に日本語のほうが受身形の使用率が高い」という結果が出ていたとのことです。

私自身も、日本語は「れる」「られる」を使う受身表現をしょっちゅう使う気がするのに、英語にも結構受動態が散見されるのに、中国語の受身表現“被”構文の使用頻度は少ないのでは、とかねがね疑問に思っていました。

確かに「明らかに目にした状況を傍観者として叙述する」中国語は日本語に比べると受身表現は少なく、“被”構文というのは客観的にそういう事実が発生したときにしか用いないと断言できそうです。

本来自分とは無関係に発生した出来事を己に降りかかった出来事として受け取り、“受けの姿勢”でとらえて表現する、そうした日本人の発想の特質、中国という大陸で生活する中国人にはなかなか気づかれにくいことなのではないでしょうか。


この森田さんの論を読んで、なぜか私は”中国大好き”の福原愛ちゃんが、中国CCTVのインタビューを受けたときのシーンを思い出しました。

司会者から愛ちゃんの家族とお金のことを”しつこく”聞かれて、愛ちゃんがとうとう泣きだしてしまった、あの場面をです。日本人の”受けの姿勢”、受身表現を考える上でまったく関係なさそうなことなのですが、なぜかあの場面を思い出しているのです。
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by damao36 | 2008-09-25 10:45 | 中国語 | Comments(0)
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