人気ブログランキング | 話題のタグを見る
<< 「黒を決して逃すことがあっては... 阿川弘之翁の鈴木貫太郎評――『... >>

「やまとだましい」(和魂・大和魂)とは

 先の大戦開戦から3年間首相を務めた東条英機を、今年は90歳になられる作家の阿川弘之翁(1920年生)が「つゆ和魂なかりけるもの」の代表だと、その著『大人の見識』(新潮新書・2007年)の中で、悪口を書いています。

 どうして東条英機が「つゆ和魂なかりけるもの」(「やまとだましい」のまったくない奴)なのでしょうか。

 阿川翁はまず日本人の欠点として「軽躁」(落ち着きがなく、軽々しく騒ぐこと)を挙げており、そのことを見抜いていたに違いないとして戦国武将武田信玄の「武将の陥りやすき三大失観」を引用して、以下のように述べています。

     一つ、分別あるものを悪人とみること
     二つ、遠慮あるものを臆病とみること
     三つ、軽躁なるものを勇豪とみること
     (武田信玄は)そう戒めています。さすが風林火山を旗じるしに掲げた武人の洞察力だと思います。風林の
    「林」は「徐かなること林の如し」で、軽躁の反対、静謐の価値を重く見ているんですからね。
     信玄の言う「軽躁なるものを勇豪とみること」は、時代が現世に近づくにつれて「失観」とも思わなくなるので
    すが、歴史を逆にたどって行くと、古く平安時代の説話で、やはり軽躁を戒めたものがあるのです。

 つまり、「つゆ和魂なかりける」東条は「軽躁なることを勇豪だとカン違いしている指導者」と見ているのでしょう。「和魂」とは「軽躁」なんかではないと戒めているその出典は、平安末期のわが国最大の古代説話集『今昔物語集』の「明法博士の清原善澄が強盗に殺されたこと」(第29巻第20話)で、阿川翁は以下のように要約説明しています。
http://www.wombat.zaq.ne.jp/esperanto/konzyaku/kon2920.htm(原文ご覧ください)

      清原善澄という学者の家にあるとき強盗が押し入り、家財道具一切合切を盗んで行く。床の下に隠れて
     それを見ていた善澄は、どうにも悔しくて我慢ならなくなり、ようやく一味が立ち去ろうとする時、後ろから、
     「お前たち、明日、必ず検非違使に届けて捕まえてやる」と罵った。怒った泥棒がとって返して、善澄は切り
     殺されてしまう。この話、『今昔物語』に出ています。作者は、こう批判している。
      「善澄、才はめでたかりけれども、つゆ、和魂無かりけものにて、かくも幼きことをいひて死せるなりとぞ

 この「和魂」、平安時代の古文は訓読が原則ですから、「やまとだましい」と読ませています。、阿川翁はさらに以下のように述べています。

      「やまとだましい」は明治以降、特に昭和初期の軍国時代、「大和魂」と表記されて大いに持てはやされ
     ました。「若い血潮の予科練の」で始まる西条八十作詞の『若鷲の歌』(昭和18年)にも、「ぐんと練れ練れ
     攻撃精神、大和魂にゃ敵はない」という有名な一節があります。一般には、こうした「撃ちてし止まむ」風の
     勇猛な精神が「大和魂」だと思われているようですが、『今昔』が「和魂」と書いている通り、本当は漢才に
     対する和魂なんです。日本人なら持っていて然るべき大人の思慮分別なんです。
     http://www.youtube.com/watch?v=sSp_BrnJ7rY「若鷲の歌」。軍歌、なつかしいです。私も予科練希望でした。


 私はなるほどと思いながら、本当だろうかと『広辞苑』を引いてみました。

     やまと-だましい【大和魂】
      ①漢才すなわち学問(漢学)上の知識に対して、実生活上の知恵・才能。和魂(わこん)。源氏物語(少
       女)「才を本としてこそ――の世に用ひらるる方も」⇒漢才
      ②日本民族固有の精神。勇猛で潔いのが特性とされる。椿説弓張月(後編)「事に迫りて死を軽んずる
       は、――なれど多くは慮(おもんはかり)の浅きに似て、学ばざるの悞(あやまり)なり」


 「和魂漢才」という語もありますが、この語は室町時代の『菅家遺誡』に出ているそうです。その語のもじりとして明治以降には「和魂洋才」という語が使われています。こうした「和魂」とか「大和魂」とかいう語を見聞きすると、私はどうしてもどこかの国や地域と比べてわが国精神文化の優位性を強調した語だととらえていたのでしたが、「やまとだましい」とはもともとは学問・知識(漢才・洋才)とは異なる日常生活を送るときに必要な思慮分別であり、生活の知恵であり、生活者の感覚・才覚のことなのですね。

 大戦開戦当時のわが国がどういう状況にあったか、詳しくは知りませんが、ひょっとして国際社会の中では今の北朝鮮みたいに孤立していたのではないでしょうか。国民の大部分は戦争なんか欲していなかったのに、そういう状態に我慢できず、負けるに決まっているアメリカとの戦いを東条たちは始めた、だから「つゆ和魂なかりけるもの」といっておられるのでしょう。


 さて、話し変わって、今の小沢・鳩山の「政治とカネ」の問題、生活者としては虚偽記載違反とか贈与税逃れとか(収賄罪が立件できたら別ですが)で、お二人が進めようとしているわが国の“大掃除”を中止に追い込むようでは、「(地検や自民)、才はめでたかりけれども、つゆ、和魂なかりけものにて、かくも幼きことをいひて(民主主義の定着は)死せるなりとぞ」ということにならないか、そう思うのです。正義を振りかざす自民党、公明党、共産党らが、日本の“大掃除”は必要ないとのお考えでしたら、仕方のないことですが。


           (”大掃除”なんかはじめて、ネズミ退治なんかされたらかなわん そんな迷いもあるドブネズミ)
by damao36 | 2010-01-24 09:52 | 政治 | Comments(0)
<< 「黒を決して逃すことがあっては... 阿川弘之翁の鈴木貫太郎評――『... >>