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体感中国語150―英語の世紀の中で―中国語を学ぶということ(1)

 12歳で家族と共にニューヨークに移り住むが、アメリカになじめず、改造社版「現代日本文学全集」を読んで過ごしていたという作家・水村美苗さんの『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』(筑摩書房・2008)を1週間かけて読み終えました。

 人が操る言葉には「普遍語」、「現地語」、そして「国語」というのがあり、今や世界の言語は英語の世紀、つまり英語が「普遍語」(universal language)の時代であり、インターネットの発達に伴って、今後もその傾向はますます強まるとのこと。そうした予測のもとに、非西洋国でいちはやく「現地語」(local language)から「国語(national language)に成長した日本語の今後のあり方を問う評論でした。水村氏が懸念する日本語の今後の問題というのは、放っておけば日本語は、「話し言葉」としては残っても、叡智を刻む「書き言葉」としてはその輝きを失っていく、ということです。

 「普遍語」とは古くからある偉大な文明の言葉のことで、漢字文化圏の漢文(中国語古文)、ヨーロッパ文明圏のラテン語、ギリシャ語、近代文明の中のフランス語、英語、ドイツ語、そして現代文明の中での英語をいいます。今や英語が「普遍語」になったということは、英語圏を除いたすべての言語圏で、〈母語〉と英語を使う「二重言語者」が増えているということです。

ここに「二重言語者」という語が出てきましたが、水村氏が「バイリンガル」という語を用いずにあえて「二重言語者」と呼ぶわけは、「バイリンガル」とは「二カ国語を話せる」という意味合いが強いからで、「二重言語者」とは「自分の〈話し言葉〉とはちがう外国語が読める」人のことだそうです。ですから、universal languageを「世界語」といわずに「普遍語」といっているのも、必ずしも〈母語〉と同じように「普遍語」である英語をしゃべれるということまで求めているわけではなく、少なくとも「普遍語」を自由に読み解き、それを学問の言葉として使うことができる、そういう人をさしているのです。


 さて、私はこの書を読みながら、しばしば中国語はどうなのだろうかと考えていました。

 かつては漢字文化圏において中国古典語(漢文)が書き言としての「普遍語」でした。今は現代中国語が中華圏内での書き言葉の「普遍語」ですが、世界規模でみるなら、主要な現地語ではありますが、「普遍語」とはいえないでしょう。

 ところで、私たち日本人がふつうに使っている「中国語」という単語、なぜか中国の辞書には載っていません。日本で出されている中国語辞書にも載っていません。「中国語」という呼称は大陸では「中文、漢語、普通語、中国話」と呼ばれ、台湾では「国語」です。また、、香港では「マンダリン」、シンガポールでは「華語」などと呼ばれています。かつては「北京語、官話、シナ語」という呼称もありました。

 中国で出されている「英語辞典」で「Chisese」を引くと、「中文」とか「漢語」という訳語になっています。

 このように地域によって呼称の違う「中国語」は、日本語が明治期を通して日本の「国語」の地位を獲得してきたように、いわゆる「中国語」も中華圏での「国語」の地位を獲得しているのでしょうか。私の答えは「獲得しつつある」というものです。
 
 かつてのわが国も絶対多数の人々が「現地語」(方言)で生活していました。いや、「現地語」(方言)しか話せない単一言語者でした。明治維新という文明開化のなかで標準語(共通語)が形成され流布し、今はその標準語(共通語)である「日本語」しか話さない日本人が多数を占めつつあります。

 中国も同じ過程を経ているのでしょうが、政治情勢の安定化が日本よりも遅れ、さらに人口が多く、国土が広大であるという条件もあって、その歩みは遅れ、普通語と呼ばれる「漢語」を日常生活の中で四六時中使っている人たちは、北方地域を除いてそんなに多くはないと推察しています。上海のローカルでは上海語、広州、香港在住の庶民は広東語が主で、普通語である北京語は学校で習い、出身地の違う中国人同士の会話で使う、そういう人たちがまだまだ絶対多数でしょう。


 英語の世紀を向かえたということは、「国益という観点から見れば、すべての非英語圏の国家が、優れて英語ができる人材を、充分な数、育てなくてはならなくなったのを意味する」と、水村氏は述べ、そのための方針としては以下の3つが考えられるといっています。
 Ⅰは、〈国語〉を英語にしてしまうこと。
 Ⅱは、国民の全員がバイリンガルになるのを目指すこと。
 Ⅲは、国民の一部がバイリンガルになるのを目指すこと。

 水村氏の結論はⅢです。シンガポールが一見Ⅱの「国民総バイリンガル」に見えるが、それは話し言葉のレベルでのことで、書き言葉はやっぱり英語圏に属しているとのこと。言語の世界では「あれも、これも」というのは容易でなく、その国の国民であるならば、まずはその国の「国語」ができるようになるべきだというのが、氏の主張です。                                               (つづく)
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by damao36 | 2009-08-07 10:59 | 中国語 | Comments(0)
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