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159ー介詞(前置詞)となる語

 文の修飾成分の一つである状語(連用修飾語)は時間詞や場所詞、介詞連語、副詞によって構成されています。この時間詞や場所詞、介詞連語、副詞はすべて述語の状況がどうであるかということ、つまり、その述語がどういう状況の下での行為・動作、状態なのかということを限定している部分です。ですから、日本語では連用修飾語、英語では副詞節と呼んでいます。英語的に考えると、ここは広義の副詞なのです。

 それでは、ここで状語の柱の一つである介詞連語(前置詞フレーズ)についてまとめたいのですが、その前に介詞となる語についてまとめておきます。

 中国語の介詞に該当する主なものを以下に掲示します。なお、その用法の違いによって①~⑧に分けてみました。

 それでは主な介詞を挙げておきます。 

<時間・場所>を表す  ~に/で/ときに/うちに(~する)
  zài    
  dāng
  chén

<範囲>を表す  ~から/まで/に沿って/(~する)
  cóng         自从zìcóng       yóu
  dào  
  shùn    沿yán
  ~を除いて(~である)
  chū   除了chūle
 
 はもともと書面語(文言)、もその傾向の強い語です。
 はともに時間や空間における起点を表し、訳は「~から」です。も日本語では「~から」になりますが、時間や空間における距離感を意識した「~から」です。ですから、「ここから自宅までどのくらいですか」と聞きたいときは、「离这儿到你家多远?」となり「从这儿~」とはいいません。
 状語というのは必ず述語の前ですから、介詞連語(「介詞+空間語」)が状語になるためには前に来なくてはいけません。しかし、の6語は述語動詞のすぐ後につづいて賓語の名詞(空間語)の仲介をします。例えば「我住在上海」のようにです。この「在上海」を多くの文法書ではこれも介詞連語(フレーズ)にとっています。しかし、郭春貴さんの『誤用から学ぶ中国語』は、述語の後の「」は補語の動詞にとっています。一体どちらがいいのでしょうか。


<方向>を表す  ~に向かって(~する)
  cháo    wǎng    xiàng  


 
<対象>を表す  ~と/に/を/に対して・に関して/までも(~する)
        gēn    dóng   
  gěi
       jiāng         
  duì    对于duìyú     关于guāyú
  lián

 は書面語です。
 には英語のandとwithの意味があります。Andの意味だと連詞になります。ここはwithの意味の介詞です。
 は「~を~に処置する」という意味の処置文になります。は対象を取り上げる感じがあり、はこういう方法でということなので、手段としてもいい感じです。は把の文語的表現です
 对于は「~について」、「~に対して」、という意味です。对于は多く文頭に用いられます。关于は「~について」、「~に関して」という意味で、对于と同じような意味で、ほぼ置き換えられるます。あえて区別すると、对于は動作・状態の関連する対象を、关于は動作・状態に関連する事物を取り上げて話題にしているということができます。


<手段・方法>を表す  ~を用いて/によって・に基づいて・に照らして・を根拠に(~する)
  yòng   
  ān      
  zhào          píng  
  按照ānzhào    根据gēnjù    依照yīzhào    通过tōngguo
          
 は基本的にはどれも「~によって(~する)」という同じ意味です。ただ、本来の漢字の意味の違いから、例えばは「~を用いることによって」、は「~を手に取ることによって」、は「~を手で押さえることによって」依は「~よりかかることによって」、照は「~を照らしてみることによって」、据は「~を拠りどころにすることによって」、は「~にもたれることによって」というニュアンスの違いはあります。
 按照根据依照は丁寧な言い回しの言葉です。
 通过は「~を通したことによって」、「~を通じて」の意味です。


<原因・理由・目的>を表す  ~のために/~の代わりに/~によって(~する)
   yīn     因为yīnwei  
   wèi     为了wèile
   yóu     由于yóuyú
  
 は書面語。
 も「もとづく」、「ふまえる」の意の動詞、「~なので」という連詞、「~によって」という介詞の用法で、原因・理由を表します。
 は動詞の「~となる」、介詞の「~される」という受身の意と、動詞の「~のためである」、介詞の「~のために」という目的の意のときがあります。ここはもちろん目的です。なお、このは受身のときは2声に、目的のときは4声に発音するので、注意が必要です。
 因为为了と同じ意味・用法です。
 はもともと「もとづく」という意の動詞、「わけ」という意の名詞ですが、いまは動詞や名詞の用法は単語や成語として見られますが、主として「(動作・行為の実行者/事物構成の成分・材料)によって」という原因の意味の介詞として使われています。
 因为由于が介詞として用いるときは、ともに「~のために」、「~によって」と原因・理由を示すはたらきをします。また、ともに動詞性の成分を後ろにとって、「~なので」、「~だから」という因果関係を示す連詞にもなります。しかし、語構成の漢字の意味の違いから、由于因此因而と呼応でき、因为は複文の後半にも用いることができるという違いはあります。また、由于の方が書き言葉で、話し言葉では因为の方がよく使われます。
 は「~に代って」の意味です。


<受身>を表す  ~に(~される)/~によって(~する)           
  bèi     jiào     ràng
 
  「」の「」の2語は使役文でも使われます。受動文ではこの語は介詞と説明されているのに、使役文ではほとんどの書が動詞でとして扱っています。使役文の代表である「使」もまた動詞です。どうしてでしょうか。


<比較>を表す  ~にくらべて(~である) 
  bǐ     gēn      dóng

 ここは「比較文」をご覧ください。



 以上紹介した介詞は全部で52語ほどでした。これで全部だとはいえませんが、ほぼこの程度でしょう。

 
 ところで、中国語の介詞となる語のルーツを考えると、英語の前置詞と大きく違うとこがあります。

 それは動詞性が強いということです。

 介詞というのは紀元前の中国古典、いわゆるわが国でいうところの漢文ですでに「在  于  由  自  从  与  以  将  因  为  以  被」といった文字が介詞として使われています。わが国漢文では「助字」の呼ばれていた文字群の一つです。
   
 この中にはいまも日常的に会話の中で使われているのはですが、多くの語は書面語として、あらたまった書き言葉として使われています。また、因为为了 のように、二字熟語として使われています。
 
 次に古典の中ではもっぱら動詞として使われていた語が、現代会話の中ではしだいにその動詞性が弱まって、介詞として使われている語が以下のように多数あります。
  在    当    离   到    顺   沿    除    朝   往   向   给 把
  拿    对   拿    按    依   照    据    替   被    叫   让   比 

 この語の中には主として介詞として使われがちなもの、主として動詞としてもちいられがちなものとがあり、語の動詞性には強弱があります。

 また、口語的なものとして「」があり、これもまた動詞からの転用です。
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by damao36 | 2009-10-26 23:07 | 中国語文法 | Comments(0)

体感中国語159ー「清明上河圖」扇子画讃の解説

 この夏、知人が中国からの高校生をホームステイに受け入れました。
 お礼に中国工芸品の「清明上河圖」の扇子をもらいました。なかなかの土産物とは思うものの、どんな絵なのか、裏の文章はなにが書いてあるのか、見当つかないから、解読してくれとたのまれました。

 この扇子は表面は幅約10メートルの運河にかかる橋げたのない虹のような大きな橋がかかり、人がいっぱい通り、運河には何人も船頭が乗っている運搬船が浮かぶ、12世紀ころの北宋の都の都市風景のにぎわいぶりが描かれています。
 裏面には以下に紹介する文と七言絶句です。

 中国旅行でこのような扇子を手に入れる人もいるかと思い、意味がわからないよりわかった方がいいと思いましたので、間違いもあるかと思いますが、参考までに、知人に渡した原稿を紹介します。


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  清明上河圖解説

(作品解説)
 「清明上河図」は北宋(960~1127)末期の翰林待詔であり、画家としても著名であった張擇端の描いた、縦二五センチ、長さ五・二八メートルの絵巻です。現在北京故宮博物館が所蔵しています。
 清明の時節(陰暦春分の日から十五日目の節句、新暦では四月五日)の、北宋の都、東京開封府(現河南省開封市)に内外の人士が行楽して繁栄する様子を描いています。季節は、春たけなわであり、その絵画的な精細描写の価値とともに、当時の市街や風俗を描いた図として、極めて資料価値の高いものと評価されています。
 この文章は大定丙午(ひのえうま)の年の清明節後のある日に燕山に住む張著という人がこの図の奥書として書いた文(跋)です。この図の作者張擇端を知る唯一の資料とのことです。
 なお、後につづく文字は「博平に住む 張世積」(この字は疑問)と「鷺津に住む 如壽」という人の七言絶句です。



翰林張擇端字正道東武人也幼讀書遊學於京師後習繪事本工其界畫尤嗜於舟車市橋郭徑引成家教也按向氏評論圖畫記云西湖爭標圖清明上河圖選入神品識者宜寶之
                                      大定丙午清明后一日 燕山 張著 跋

(訓読)
 翰林の張擇端、字は正道、東武の人なり。幼くして書を読み、京師に遊学す。後に絵事を習ふ。
 もともと其の界に工(たくみ)にして、尤も嗜みて舟・車・市・橋・郭・徑を画く。引かれて家教と成るなり。
 向氏の評論を按ずるに、『図画記』に云ふ、「西湖争標図と清明上河図は選ばれて神品に入る。識者宜しく之を宝とすべし。」と。
                                               大定丙午 清明后の一日 燕山 張著 跋。

(訳)
 翰林の張擇端は、字を正道といい、東武の人です。幼いころから書物を読み、都に出て学問をつみました。後に絵画の技法も学びました。
 もともとその方面に優れた才能があり、特に好んで描いたのは舟とか車、市場とか橋梁、お城とか人通りとかでした。推薦されて名家の家庭教師にもなりました。
 向氏の評論を調べてみると、『図画記』に以下のように書かれています。「『西湖争標図』と『清明上河図』は選ばれて神の手になるような優れた作品だといわれている。見識ある人はこの作品を宝だと思って接してほしい。」と。                                       大定丙午 清明節後の一日 燕山 張著 跋。


(張世積の七絶二首)
畫橋虹臥浚儀渠  画は橋の虹臥と浚儀せし渠、
兩岸風煙天下無  兩岸の風煙 天下に無からん。
滿眼而今皆瓦礫  滿眼の而今は皆瓦礫して
人猶時復得璣珠  人猶ほ時に復すれば璣珠を得ん

(解釈)
 この図巻きには虹が大空に横たわっているような橋と底を深くしてきちんと測量して作られた運河が描かれている。
 この汴河両岸の賑わいの風景はこの地以外で目にすることはできないだろう。
 ところで、いまわたしの目に現実に飛び込んでいる風景はどこもかしこも瓦礫の山だ。
 人間というものはいつかまたもとに戻ってこういう珠玉のような風景を手に入れることができるだろうか。


繁華夢斷兩橋空  繁華の夢断たれて兩橋は空しく、
唯有悠悠汴水東  ただ悠悠たる汴水の東する有り。
誰識當年圖畫日  誰か当年の図画の日を識るや
萬家簾幕翠煙中  万家の簾幕翠煙の中

(解釈)
 繁華の夢は王朝の衰退で断たれてしまい、ふたつの橋は空しく消えてしまった。
 今はただ汴河の水が人の営みとは無縁に東の方角へ悠悠と流れているのを目にするだけだ。
 一体だれがあの当時の人々のにぎやかな生活風景を知っているだろうか。もうだれも知らないだろう。
 この図巻きをみると万を数えるくらいの多くの家が軒にはすだれや垂れ幕を下げて、緑の樹木に囲まれた中で豊かに暮らしているよ。



(如壽の七絶二首)
汴梁自古帝王都  汴(べん)梁(りょう)は古より帝王の都
興廢相尋何代無  興廃相ひ尋ぬるも何代も無し
獨惜徽欽從北去  独り惜しむらくは徽欽北より去りて
至今荒草徧長衢  今に至るや荒草徧へに長衢なることを

(解釈)
 ここ汴梁の地は昔から帝王の都であった。
 いま興廃の歴史を尋ねてみても、もう何代も王朝の姿はここにはみえない。
 ただただ残念なことは美しい御旗を翻す王朝の姿はこの北の地から去り、
 四方に通じるかつての大通りは今やぺんぺん草が生えてしまっていることだ。


妙華圖成意自深  妙華の図成りて意自ら深く
當年景物對沉吟  当年の景物沉吟に対す
珎藏易主知多少  珍蔵主を易(か)ふるも知るは多少ぞ
聚散春風何處尋  聚散する春風何れの処をか尋ねん

(解釈)
 この上なく華やかな賑わいを描いたこの絵が描かれて、この絵を見るものの当時への思いはつのる。
 当時の人々の生活の一こま一こまを思うにつれて、思いはいやましに深まるばかりだ。
 この貴重な宝物の所蔵した人は幾人も入れ替わっているが、それぞれなにをこの絵から受け取ったのだろうか。
 吹いては過ぎ去るこの春風よ、これから一体どこを訪ねつもりだろうか。
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by damao36 | 2009-10-17 18:09 | 中国語 | Comments(0)

体感中国語158―状態・存在動詞の「有」と「在」

 中国語の動詞に限りませんが、動詞を大きく2つにわけると、動作動詞(動態動詞)と非動作動詞(静態動詞)とになります。

 私はこの中の非動作動詞をさらに状態動詞、心理・生理活動動詞、関係動詞と3つに下位分類し、その中の状態動詞をさらにまた下位分類として存在動詞なるものを設定してみました。そしてこの存在動詞の中心語は「you3)」と「(zai4)」であろうと仮定しました。

 この「」と「」、わが国の漢和字典で引くと、どちらも基本的な意味は「ある・いる」とだけ説明されています。でも、一体、この「ある」と「いる」はどう違うのでしょうか。

 そこで『広辞苑』を引いてみましたら、「」は「①あること。存在すること。②持つこと。」などとあり、「」は「一定の場所にあること。いること。」などとあるだけで、漢和字典と同じような説明でした。

 今度は「ある」の項を引いてみましたら、「有る・在る」となっていて、「ものごとの存在が認識される。もともとは、人・動物も含めてその存在を表したが、現代語では、動きを意識しないものの存在に用い、動きを意識しての「いる」と使い分ける。人でも、存在だけをいう時には「多くの賛成者がある」のように「ある」ともいう。」と説明されていました。

 そういえば『伊勢物語』ではお話が全部「昔、男ありけり」ではじまっていますが、平安時代にはまだ区別はなかったのでしょう。どうしてこのように無生物のときは「ある」生物のときは「いる」と区別して使い分けるようになったのか、今の私はまだ答えることができません。


 さて、前置きが長くなりましたが、中国語の「」と「」にはそのような区別はありません。区別があるのは、日本語に訳したときに、基本的な訳語が、「」は「~ある(いる)」となり、「」は「~ある(いる)」になるという点です。


 この「~ある(いる)」と「~ある(いる)」の違いはどう説明したらいいのでしょうか。

 例えば今私たちの目の前にボールペンが落ちていたとします。偶然ボールペンが落ちていたのを発見したときと、探していたボールペンがそこの落ちているのをやっと見つけたときとがあります。このとき、私たちは日本語ではどう区別して表現するでしょうか。

  「あ、ボールペンがここにある/あった。」

  「あ、ここにボールペンがある/あった。」

 さて、どちらがどちらなでしょうか。


 ところで、基本的にはSVO構文である中国語というのは、主語はお互いに既知の事柄で、その事柄についての新しい情報を述語以降の部分で相手に伝える構文ですから、未知の情報、いちばん伝えたいことは当然述語とその後ろにつづくことになります。

 日本語の場合も同でしょうか。

 ボールペンが落ちているのに気づいたとき、私は「あ、ボールペンがここに落ちている」というのが自然な感じがします。探していたボールペンがみっかったときは、「あ、ここにボールペンが落ちていた」というに違いありません。強調したい語を先に口にする、そんな感じがしますが、でも、「ボールペン」と「ここ」の位置を入れ替えていってもかまわない気もします。

 中国語なら前者の場合は「这儿有圆珠笔。」(Zhèr yǒu yuánzhū bǐ。)(訓読=ココニ圓珠筆有リ)といい、後者の場合は「圆珠笔在这儿。」(Yuánzhū bǐ zài zhèr)(圓珠筆ハココニ在リ)と必ずいうことになります。

 基本的に同じSVO構文の英語はどうなのでしょうか。前者なら「There is a ball-point pen here.」で、後者なら「The ball-point pen is here.」でしょうか。


 それでは「」と「」の違いを、公式として以下に示すておきます。

    有=場所詞++人・物 (いちばん伝えたいことは「人・物」)

    在=人・物++場所詞 (いちばん伝えたいことは「場所」)


 なお、以上の用法は「」と「」の用法の1つであり、外の用法もあることを、お分かりでしょうが、お断りしておきます。
 
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by damao36 | 2009-10-13 08:42 | 中国語文法 | Comments(0)

体感中国語157―映画「非誠勿擾」のセリフから考える言葉の3本の糸

 2009年の正月中国映画「非誠勿擾」(馮小剛監督)のタイトルは「誠実なおつき合いができるかたのみ」という意味です。漢文訓読式で読むなら「誠ニアラザレバ擾(じゃま)スルナカレ」です。中国の大衆新聞には結婚相手を求める広告欄がありますが、そこでしばしば見かける成句(四字熟語)です。

 億万長者になった、40代でまだ独身の秦奮は、理想の女性にめぐり合えないでいましたが、スチュワーデスの梁笑笑という誠実で美しい女性に出会い、一目ぼれします。笑笑もこの男の彼女になってもいいかと思うようになってきますが、つきあう前提として、こんな条件を出します。

     でも、私の心の中には他の人がいることを許して
     実際に何か行動を起こすようなことはしないわ
     ただ心の中に彼の場所を残しておきたいの
     但是你要允许我心里头有别人
     我不会有实际行动,我只是会在我心里头给他保留一个位子


 秦奮はこんなふうに答えます。

     それなら俺も早く想いを寄せられる人を見つけなきゃな
     でなければ君が心の中で他の男のことを想っている時に俺は相手もいないんじゃ損だからな
      那我还得赶紧再找一个想的人去,要不然你心里有别人我没有, 那我不亏死了!

 笑笑は秦奮がその条件を受け入れたことを知ると、次にこんな要求をします。

     私と一緒に北海道に行ってくれる
     私と彼はあそこから始まったの
     だから私もそこで終わりにしたいの
     能陪我去一趟北海道吗?
     我和他是从那儿开始的, 我也想要在那儿结束

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さて、北海道旅行の最後の方の、秦奮と笑笑の会話はこうです。

      君はさぁ、同時に何人かと付き合うこともできない
      適当な付き合いをすることもできない
      顔に全部書いてあるからな
      俺はこう公言できる
      君はアイツのページをまだめくっていないが、新しいページをめくったら、君は昔の一途さを持てるようになる
      俺はそれを見極めた後、君の今の態度を受け入れるのさ
      君は馬鹿だけど俺は馬鹿じゃあない
      你啊, 想三心二意还真没那本事
      逢场作戏你都不会, 全写脸上了
      我把这话放在这儿, 他这一页你还没有翻过去, 一旦翻到新的一页啊, 你照样会一心一意
      我就看准了这一条才容忍你现在的表现, 你傻我可不傻


      それじゃもし私が教訓を得て賢くなったら
      あなたのもくろみは泡にならない
      那要是我接受了教训变聪明了呢;?  你的如意算盘不就落空了?


 さて、導入部分が長くなりすぎました。男女の会話、今度はこんなふうにしてみたいとどこかで考えながらの引用でした。でも、もうムダな話です。

 私の現実上の関心はというと、どうして中国語の原文は11センテンスなのに、日本語に訳すと19センテンスになっているのかという、まったくクソおもしろくもないことなのです。

 もともと句読点というのは西洋からの輸入概念でしょう。また、音声としての会話では、どこに句読点をどう打つかなんてことは考える必要もありません。あくまでも語り手の自然なリズムのはずです。それに、ここは原文と訳文を対照しているのです。


 ところで、人が話す言葉というものは、それを裏から支えている約束事があり、その言葉の無意識のルールは各言語によって違いがあるとのことです。

 そういえば中国語は孤立語で日本語は膠着語だといわれています。お隣同士の国ではありますが、漢字を共同使用している以外に、二つの言葉はもともと違う根っこから生まれたそうです。ですから、両言語には当然顕著な違いが多いはずです。その一例が、この文の区切りに対する意識の違いなのではないのでしょうか。

 中国語は孤立語といわれているくらいですから、日本語に比べると孤立しているところ、句切れるところが多いはずです。考えてみると中国語を表記する漢字という文字、その一字一字が一語一語なのです。しかも漢字1字の発音は必ず1音節です。表意文字というよりも表語文字だともいわれています。極論すると、一字一字を発音するごとに完結した世界があります。いつでも終わっていい準備ができています。(あくまでも極論!) 

 それに比べて膠着語の日本語はどうなのでしょうか。これも極論すると、日本語というのは牛のよだれのように後へ後へと際限なく(?)つづくことができる言葉なのです。ですから、ここで終わりにしたいときは、どうしても“一丁上がり”とつい力がはいるのです。よだれを拭き切るために、目に見える文では「」を打つことになるのです。きっとそうです。当たっているかどうかはわかりませんが、今の私はそう考えてみることにしました。

 それぞれの言語にはそれぞれの文を裏から支えている目には見えない約束事があります。その“形なき制度”を身につけるためには、①時間の流れ、②空間のひろがり、③論理の整合性の違いを理解することだそうです。言語の使い手の意識に深く分け入るためには、この3つの糸が手がかりになる、本当にそうなのかどうか、いましばらく考えてみることにします。


≪追記≫
 タイトルの「非誠勿擾」は四字熟語(成語)でしたが、中国語はふつうの会話でもよく使われますね。後半部分には以下の4つの四字熟語が使われています。

  三心二意=他のことに気をとられ、一つのことに集中できないさま。
  逢场作戏(逢場作戯)=演技をするかのように表面的な付き合いをするさま。
  一心一意=ひとつのことに専念する。
  如意算盘=自分に都合のいい目論見を立てる、とらぬタヌキの皮算用。

 中学、高校では四字熟語のテストがありました。でも、近ごろは日常生活の中で実際に使うことはまったくといっていいほどなくなりました。こうした漢語を日本語の中で使うと、どうしても硬くて陳腐な感じがするからでしょう。でも中国語はそういうマイナスの感じではなく、四字熟語のような成語を使うことは、物事を比ゆによって的確に説明したり、描写したりしたときに感じる快感のようなものがあります。その場にふさわしい四字熟語で表現することは、言葉の省略にもなり、学がある証拠にもなる、そういう効果があるようです。
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by damao36 | 2009-10-06 13:36 | Comments(0)

体感中国語156―なぜ中国語は句点が日本語よりも少ないのか

 「非誠勿擾」(誠実なおつき合いができるかたのみIf you are the one)という中国映画は、「正月映画の第一人者」といわれている馮小剛監督が日本の北海道にロケして制作した2009年の正月映画でした。感動的なラブコメディと自然豊かな北海道の風景で中国の観客を魅了し、今回も3億元もの興行成績を収める大ヒットでした。

 一夜にして億万長者になった、40代だがまだ独身の秦奮が、なかなか理想の女性にめぐり合えない中で、笑笑という誠実で美しい女性に出会い、一目ぼれします。しかし、その笑笑は出会いがしらにこんなことをいいます。

    我跟你谈恋爱甚至结婚,
    所有妻子该尽的责任我都可以做得到,
    但是你要允许我心里头有别人。
    我不会有实际行动,
    我只是会在我心里头给他保留一个位子。
    有时候会走神儿,会想念他,但仅仅是想念而已,
    绝对不会和他连系。
    你能接受吗?


    あなたと恋愛して結婚してもいいわ。
    妻がすべき責任はすべてこなすわ。
    でも、私の心の中には他の人がいることを許して。
    実際に何か行動を起こすようなことはしないわ。
    ただ心の中に彼の場所を残しておきたいの。
    たまにぼんやりしたり、彼のことを想ったりするけど、ただ想うだけ。
    絶対に彼とは連絡を取らない。
    受け入れられるかしら?


 さて、あなたが男ならなんと返事をするのでしょうか。

 秦奮と笑笑、この2人はその後どうなるのでしょうか。
 http://www.youtube.com/watch?v=Ok5anSMDCmM(YouTube「非誠勿擾」予告編)
 


 私はここでこの映画のストーリを紹介したり、批評したりするつもりはありません。


 私が今ひっかかっていることは、このセリフを見ておわかりのように、どうして中国語は句点(。)が日本語に比べて少ないのかということです。日本語訳には7つの句点(。)と1つの疑問符がついています。日本語は本来疑問符はつけないのですから、これも句点(。)と考えると8つです。つまり8センテンスです。

 中国語は疑問符もいれて、半分の4センテンスです。


 どうしてそうなのか、中国語と日本語の文に対する意識が違うのでしょうか。ご存知の方がいたら、教えてください。
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by damao36 | 2009-10-04 14:57 | 中国語 | Comments(0)

体感中国語155―能動文、受動・使役文、状態文、心中文、問答文

 文というものの述語部分を日本語で考えてみると、「~する」、「~される」、「~させる」、「~である」、「~と思う」、「~か」という6つのパターンになるのではないでしょうか。

 この5つの述語表現はそのまま文表現にも通じる、あくまでも目安なのですが、文を考えるとき、この文はどの述語表現の文なのかと考えることも、意味があるのではないでしょうか。

 そこで、この5つの述語表現を持った文を、以下のように名づけてみました。

1 能動文(行為・動作を述べる文)
2 受動・使役文(行為・動作を受ける、あるいはさせる文)
3 状態文(人・物・事の存在や状態を述べる文)
4 心中文(感想や知覚、判断などこころの中を述べる文)
5 問答文(相手の行為や状態を尋ね、あるいは答える文)

 1~4は表現の内容にもとづき、5は形態による分類です。実際にはこの5つでカバーできない文にも遭遇したり、どっちにも解釈できる文があるでしょうが、私はまずはこの5つの視点からも文を眺めてみたいと思っています。

 そもそも、どうしてこのような5つの述語表現、文表現になるのかと考えると、1~4は文の中心で、述語の核である動詞と形容詞のはたらきの違いにあるからです。


 動詞というものは大きくは行為(連続する動作)や動作を述べたり、そうした動作を受けることを述べる動作動詞と、人・物・事の存在や状態を述べる状態動詞、それに私たち人間の思いや感じたこと、判断や好悪を述べる知覚、判断・感情動詞とがあるからです。形容詞は動作を述べるはたらきはありませんが、人・物・事の存在や状態、それに感情を述べる役割があります。

 5は1~4とはカテゴリーが違っていて、1~4の述語表現を用いて、相手に問いかけるというものです。ですから、ひょっとして5は省いてもいいかもしれません。



 それでは1~5をもうすこし説明してみることにします。

 この5つの中で、1の能動文、2の受動・使役文はよく認知されていますから、説明は不要でしょう。「受動」を「受身」としてもいいのですが、「使役」が音読ですから、音読の漢字語に統一しました。

 3の状態文、これも動詞の中の状態動詞(あるいるなど)と形容詞を考えれば理解できます。

 5の問答文も疑問文のことですから、問題ありません。どうして疑問文としなかったのですか、と聞かれたら、なんとなくなのですが、外国語の場合はその答えの方も学習しておく必要があるのではと思っているからです。

 なお、この問答文、述語が動作動詞か状態動詞か、状態形容詞かによって、能動問答文状態問答文がある、というふうに2つに分類できそうです。


 難問は4の心中文です。これは私の造語で、 「シンジュウ」と読まずに、「シンチュウ」と読んでください。

 日本語の基本的な語句としては「~と思う」を挙げておりますが、「~と感じる」、「~と判断する」、「~と願っている」を挙げておいてもいいことでしょう。

 要するにこの語句が受ける内容は現実世界での出来事ではなく、人の心の中にある世界なのです。心の中での感想、知覚、判断、認知、願望などです。ですから、感想文、知覚文、判断文、認知文、請願文、自感文……などと考えましたが、いずれもピッタリせず、結局、「主体者の心の中にわきおこる心理や感情、判断」だから、素直に心中文でいいと考えたのでした。


 それでは能動文受動・使役文状態文心中文問答文の日本語、英語、中国語の例文を挙げておこうと思いましたが、面倒になりなりましたので、各自お考えください。
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by damao36 | 2009-10-01 11:42 | 中国語 | Comments(0)