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「殺すくらゐ 何でもない」と闊歩している人はいるのだ

辺見庸さんの新聞連載コラム「水の透明画法」に「夢野の歌と秋葉原事件/正気と狂気の判別困難」という題で、以下の歌が引用されていました。

殺すくらゐ 何でもない
と思ひつゝ人ごみの中を
濶歩して行く

何者か殺し度い気持ち
たゞひとり
アハ/\/\と高笑ひする

自分より優れた者が
皆死ねばいゝにと思ひ
鏡を見ている

白塗りのトラツクが街をヒタ走る
何処までも/\
真赤になるまで


この歌の作者は、私が生まれた年に亡くなった怪奇幻想の作家夢野久作(1889~1936)という人で、「猟奇歌」という彼の歌集に収められています。私が生まれる前、70年も前にこんな歌を作った人がわが国にいたんですね。http://www.aozora.gr.jp/cards/000096/files/933_22022.html
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(本名・杉山泰道。右翼の大物・杉山茂丸の子として生まれ、はじめ農園経営に従事。僧侶、新聞記者などを経て、作家に。死の前年に書かれた大作『ドグラ・マグラ』をはじめ、怪奇味と幻想性の色濃い作風で日本文学にユニークな地歩を占める。


また、今週の週刊誌広告見たら、<ネットで「神」と崇められる「アキバ通り魔」>とあり、<「加藤ありがとう。勇気を与えてくれて感謝している」「加藤は俺たちの十字架を背負って死刑台に上がる!」今、通り魔「礼賛」の書き込みは増える一方―>とありました。本当なのでしょうか。

私はパンダマンさんの「凶悪犯罪の誤解を解くページ」を読ませてもらって、このような事件は過去にも外国でも起こっているので、なにも今の時代を象徴する事件ではないと考え、「通り魔事件はよくあることだ」という1文を書いたのでした。

それまではこうした犯罪事件が次々と起こるのは、今の時代が格差社会であり、若者文化がバーチャルなオタク文化の全盛だからだ、と考えていたのでした。

でも、この1文を書いては見たものの、その後もつらつら考えていると、どうも「誰でもいい」若者の通り魔事件の起こる頻度が近ごろは近過ぎていたのではないか。それに、今週の「週刊新潮」にあるように、通り魔「礼賛」の書き込みが増える一方なら、“加藤”通り魔犯人がいうように、このような犯罪予備軍は以前にもまして増えているのではないのか。そんな懸念もなかなか消えないのです。

この17日、オタク第一号の宮崎勤死刑囚に刑が執行されました。「犯罪の真相が究明されないまま、事件の幕引きがされてしまった」とか、死刑廃止の立場からの疑義の声などもあって、話題はつづいています。

20年も前に起こった連続幼児誘拐殺人事件、その犯行への“謎”解き、一体どれくらい時間をかければすむというのでしょうか。宮崎勤も加藤智大も、あのような歌を作った夢野久作と同じで、人間というものは、とくに若い男性というものは、あのような、なかなか理屈では解けない心境に陥ることがあるわけで、私たちが問題にするのは精神状態の解明よりも、その発散の仕方がどうだったかではないでしょうか。

裁判制度とか死刑の問題とか、これまで考えたこともないので、私の考え方はごく常識的で、麻原彰晃裁判を何年もかけてやっと結論を出す人権国家のやり方が腑に落ちず、それでも世界の人権大国に比べて問題ありと批判されていることにも合点が行ってないのです。 (でも、私は死刑執行者にはなりたくなく、その家族でもないことにホッとしているのです。)

精神医学についても無知で、凶悪犯人を精神鑑定するというのも、素人の私にはよくわからないところです。



さて、私がいいたいことはなんなのでしょうか。

通り魔はいつでもありうる。「殺すくらゐ 何でもない」と闊歩している人、特に若い男はいつでもどこにでも存在している。そういうことをいいたいのでしょうか。以下の夢野氏の歌、私もなんとなくわかるからです。


わが心狂ひ得ぬこそ悲しけれ
狂へと責むる
鞭をながめて

殺したくも殺されぬ此の思ひ出よ
闇から闇に行く
猫の声

人の来て
世間話をする事が
何か腹立たしく殺し度くなりぬ

春の夜の電柱に
身を寄せて思ふ
人を殺した人のまごゝろ

すれちがつた今の女が
 眼の前で血まみれになる
  白昼の幻想


殺しておいて瞼をそつと閉ぢて遣る
そんな心恋し
こがらしの音

此の顔はよも
犯人に見えまいと
鏡のぞいてたしかめてみる

黒い大きな
吾が手を見るたびに
美しい真白い首を
掴み絞め度くなる




もうすっかり枯れ果てた大人である私がいいたいこと、それは大人の責任として、国家社会の責任あるリーダーならなおさらのこととして、若者が「正気と狂気の判別困難」な状況にならない手だてをきちんと講じてやるべきではないのかということです。

現在のマイホームが個室化してしまっていますが、現在社会そのものも自由だとか個性だとかを強調し過ぎており、特にいまどきの若者は”オタク文化漬け”なのではないでしょうか。オタク文化が経済的効果があるから、反論しにくいのでしょうが、私はやっぱりわが子たちがオタクになってほしいとは思わないのです。


   (わが子がオタク文化の発信人なら、お金がどんどん入るから歓迎する 立場で信念の変わる 老獪ネズミ)



≪蛇足≫
さて、こんな歌もありました。与謝野晶子の歌のパロディーです。

やは肌の
熱き血しほを刺しもみで
さびしからずや
悪を説く君



なお、この歌が作られた昭和30年代、ある意味、今の時代に近いとかで、そのころを見直す書物が多く出版されています。

日韓併合が完了した後、張作霖暗殺(28)、柳条湖鉄道爆破(31)、溥儀を執政として満州国建国(32)、満州国を帝国に(34)、盧溝橋事件(37)、そして真珠湾攻撃(41)へとつづく動乱の時代だったようで、よもやこれから先そうなるとは思いませんが、その時代を感じさせる以下のような歌もありました。

かゝる時
人を殺して酒飲みて女からかふ
偉人をうらやむ

日本晴れの日本の町を
支那人が行く
「それがどうした」
「どうもしないさ」

満洲で人を斬つたと
微笑して
肥えふとりたる友の帰り来る

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by damao36 | 2008-06-22 18:16 | 政治 | Comments(0)

慎太郎の日本民族雑種論

今月初め、自民党元幹事長の中川秀直さんが会長を務める「外国人材交流推進議員連盟」という会が、わが国の人口減少対策として、国力を伸ばすには、移民を大幅に受け入れる必要があるとして、「日本の総人口の10%(約1000万人)を移民が占める『多民族共生国家』を今後50年間で目指す」と明記した提案を福田首相にしたとのことです。
http://jp.youtube.com/watch?v=sHJSJWtvHvEYou Tube自民党幹事長中川秀直は移民推進派)


日本在住外国人の問題というと、外国人の地方参政権を認めるかどうかということが課題に上っているようです。どうも公明党や野党は賛成で、“ミギ”の人たちでしょうか、ネットで見ると、“在日”の問題とからんで、「とんでもない」と猛反対する意見も目立ちます。

私は“在日”という単語が、主として在日韓国人・朝鮮人を指しているということは知らずに、ネットでは嫌韓・嫌中論を説く人が、「あの人は在日で、本名は○○○」などという書き込みをみて、いささか反発を感じ、<「在日」がいるから日本はおもしろい?2006.8>という一文をかつて書いたのでした。
http://lailai-hanyu.at.webry.info/200608/article_20.html


ですから、1000万人移民受け入れの話を聞いたとき、しかも保守政治家がそのような提案をされたと聞いたとき、とても不可解で、とくに支持者の“ミギ”の人たちからは猛反発をくらうであろうと思ったのでした。


また一方、“ミギ”のオピニオン・リーダーである東京都知事の石原慎太郎さんが「日本よ 新しい移民法を」という一文を産経新聞に寄せていたのを思い出し(3月21日付)、東アジアの人たちを侮蔑するような発言が多いという印象の石原さんが、どうしてあのようなことをかかれたのか、不思議に思ったことを思い出しました。そこには以下のようなことが書かれていました。
「日本の国民が単一民族から成っているなどというのは基本的に間違った歴史認識で、我々の民族的ルーツは実は東西南北あちこちにあるのだ。日本の国は、……多くはシナ大陸や朝鮮半島から渡来した。昔の皇室の一部もそうだ」

そのとっても開明的なご意見に触発されて、私はすぐに「石原慎太郎と移民受け入れ」という一文を書きました。
http://lailai-hanyu.at.webry.info/200806/article_6.html

ところで、この慎太郎さんの“日本民族雑種論”は“ミギ”のオピニオン・リーダーとしては特異なご意見なのかと思っていたのでしたが、どうもそうではなく、戦前の戦争指導者たちもまたそのような“日本民族雑種論”で、そうしたお考えだったからこそ、台湾人や朝鮮人を日本人にしようと本気で考え、創氏改名とか皇居遥拝とかを強制する皇民化政策を推しすすめることができたのだということを、調べてみてわかりました。

そうだとすると、いまの“ミギ”の人たちがシナ人やセン人とは未来永劫つきあえないと思っているのは、正統派の考えとは違っているのではないでしょうか。


正統派の考えとは、いわゆる「国体論」のことですが、以下に「国体論」の代表者である2人の学者の国家と民族についての考えを挙げておきます。

まず、東京帝国大学法科大学長で、貴族院議員の穂積八束 (1860~1912年)ですが、彼はは、以下のように述べています。
「一国ハ必シモ限定セラレタル一個ノ民族ヲ以テ成ルト謂フニ非ス。……大民族ハ能ク異種ノ人ヲ混シ其ノ子孫ヲ同化シ其ノ民族範囲ヲ愈々大ナラシムルコトアルナリ」

この穂積説を受け継いだのが、岸信介元首相が師と仰いだ同じく東京帝大の憲法学者上杉慎吉(1878~ 1929)です。
「(民族構成は)人種の同一に非ず、言語の同一に非ず、宗教の同一に非ず。……各人相互に同胞兄弟なり同一民族なりとの信念感情に基づく」

こうした考えが国体論者であり、大アジア主義なのでしょうか。慎太郎さんもおそらくお2人の学説を踏まえて、あのようにおっしゃったに違いありません。

また、「五族協和の王道楽土・満州国」の基礎をつくった石原莞爾さんも当然そうしたお考えで、1940年、京都師団長だったときの訓示で、以下のようにおっしゃっています。
「本当に東亜連盟、東亜の大同を考へるならば、日本民族はまず個人としても謙虚でならなければならぬ。……漢民族でも、朝鮮民族でも、白系ロシア人でも各々特徴がある。悪い所ばかり見ないで各々其の善いところを尊重して行く。人の善い所を探して行くことは自らの偉大を来たす所以である」

軍人ではありますが、大変な読書家でもあった石原莞爾の訓示、まことに正論でしょう。しかし、同じ訓示の最後の方ではこのようにいわれています。
「然し天皇は世界唯一の君主であらせられること、天皇に依って世界が統一せられ、人類社会の真の美はしき平和を斎すべきことは我らの信仰である。……東亜の諸民族、世界全人類が逐次この信仰の信者となって来ることを我等は確信する。東亜の諸民族が天皇の御位置を心から信仰し得た時に始めて東亜連盟が完成するのである」

石原莞爾さんの前半には異論はないのですが、後半は私にとってはびっくりです。日本がアジアの独立に貢献したというご意見があり、結果としてはそうもいえそうですが、もしこのような国体論で、日本が推し進めた大東亜の政策が成功していたのなら、世界中の人がみんな日本人になっていたのではないでしょうか。

同じ日本人であっても「彼奴は”反日”日本人」という言い方があります。日本人かどうかをみわけるのは民族的な遺伝子というよりも、信念・信仰によると考えるからでしょうか。移民を受け入れたとしても、「天皇は世界唯一の君主」と思ってくれる教育をしなければ、結局は”反日”日本人ばかりが増えることになります。石原慎太郎さん、そこはどう考えておられるのでしょうか。


ところで、「日本は単一民族の国家」とか、「神の国」とかいって物議もかもしたわが国首相がおられましたが、「日本は単一民族の国家」という考えはとても新しい考えなのだそうです。むしろ、石原慎太郎さんの、「日本はアメリカをしのぐ合衆国」という考えの方が、戦前はどうも主流だったようです。


松岡正剛の千夜千冊」というサイトがあり、小熊英二という方の『単一民族神話の起源<日本人>の自画像の系譜』(新曜社・1995)という書物の書評が載っておりました。戦前の国体論についての理解に役立ちました。
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0774.html

      
   (「国家創出は男最高の浪漫」とファウストはいったのに、「国家喪失」の悲哀しか味あわない 哀れなネズミ)
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by damao36 | 2008-06-18 10:39 | 政治 | Comments(0)

「北帰行」、舞台は満州

小林旭は私より1歳下ですが、デビユー時代からどういうわけか、石原裕次郎よりも旭の方が私は好きでした。彼の歌も好きで、「さすらい」、「北帰行」は男の哀愁とでもいうのか、なんともいえないいい歌です。
http://jp.youtube.com/watch?v=VdjQyqdYoec(小林旭の「北帰行」)
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/hokukiko.html(寮歌としての「北帰行」)
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_bebd.html(「さすらい」)


ところで、この「北帰行」、宇田博の作詞・作曲とのことです。彼は奉天一中で四修で旧制一高を受験しますが、失敗し、関東軍参謀の石原莞爾が満洲国に創設した建国大学に夢を託して入学しますが、半年で退学となり、昭和15年 (1940年)、開校したばかりの旧制旅順高等学校に入学しなおします。しかし、戦時体制下の同校にも宇田の望んだバンカラで自由な校風は存在せず、寮の娯楽室の壁に「生徒は一流、校舎は二流、校長、教師はみな三流」と落書したりして、生活指導の教官に目を付けられ、翌年5月、デートから戻ったところを教官に見つかり、"性行不良"で退学処分となりました。彼が同校への訣別の歌として友人たちに遺した歌が、この北帰行だそうです。学校の認める正式の寮歌ではありませんが、広義の寮歌として歌われたのだそうです。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/hokukiko.html

なお、佐高信さんが郷里山形の英雄的存在、石原莞爾を批判的に書いた『黄沙の楽土 石原莞爾と日本人が見た夢』(朝日新聞・2000年)では、建国大学の寮歌となっています。


それはともかく、寮歌としての歌詞には旭の歌では省かれている、次の1節があり、宇田の青春時代と重なります。

建大 一高 旅高
追われ闇をさすらう
汲めど酔わぬ恨みの苦杯
嗟嘆 ほすに由なし


ところで、宇田が最初に入学した建国大学は石原莞爾の「アジア大学」構想に端を発し辻政信により原案が作成され、関東軍によって敷地の確保・設立がなされ、1938年5月、満州国の首都新京(長春)に開校した大学です。Wikipediaでは、その概要を以下のように説明しています。
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本科(政治学科・経済学科・文教学科)と予科・研究院が置かれ、官費により学費は無料であった。また、全寮制で日本系・満州(中国)系・朝鮮系・蒙古(モンゴル)系・ロシア系の学生が寝食を共にし寮を「塾」と称した。

形式上は国務総理大臣が建大総長(学長)を兼任したが、建大の実質的な責任者は副総長であった。民族協和の実践を目指したが満州国と同様の矛盾を抱えていた。

例として校門には満洲国旗を掲揚していたが、制定された法律により日本国国旗を同時に掲揚せねばならなかった。他にも配給された食料である高粱と米は、支那人に高粱、朝鮮人に高粱と米、日本人に米が配給されるなど、枚挙に暇が無い(これらは学生らによって批判が噴出し、互いに混合し高粱米として食すこととなった)。

とはいえ学問については比較的自由であり内地では禁書扱いであった資本論など、共産主義に関する書物も回し読みされていた。戦争が激化すると治安維持法が改正され、反満抗日活動を行った中国人学生は検挙され、また日本人学生は学徒出陣で兵員徴収された。

同期が減っていく中、荒涼とした建大の敷地に日本人学生が植林をはじめ、終戦直後、残っていた学生らによって大学の蔵書が整理され目録が作製され、中国の図書館に寄附されている。日本人だけでなく、これら運動には満州人、支那人が参加した。

建大出身者には満州国崩壊後にシベリア抑留に遭った者、文化大革命で迫害された者など悲劇的な運命をたどった者も少なくない。一方、朝鮮人では、元韓国国務総理姜英勳など後の大韓民国で大いに活躍した政治家は多い。また、建大出身者は塾で存分に議論をしたためか真に仲が良く、国籍問わず交遊があり、戦後もその交遊は一部で続いている。



ああ、「涙流れてやまず」、「嗟嘆ほすに由なし」、「恩愛我を去りぬ」、「尽きぬ未練の色か」、「あすは異郷の旅路」、こういった歌詞と曲が一体となるみんなで歌える青春の歌、いまの若い人にあるのでしょうか。


       (歌はやっぱり文語調の寮歌に限る、旧制高校生を限りなく美しく切なく空想する 復古趣味ネズミ)
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by damao36 | 2008-06-14 20:30 | 社会 | Comments(0)

アヘンは日本皇軍の謀略資金源だった

読書といったら鴎外、藤村、漱石、龍之介、直哉、治、康成……といった筑摩の文学全集に納められている“純”文学しか読まず、英治も風太郎も周平も、遼太郎さへも知らず、まして政治や経済の書はわれに無関係と思い、これからの文学は芥川賞受賞作かと考えて、近年は受賞作品を努めて読んでみたものの、なんとも私には理解できず、ついに読書はやめることにしていたのでした。しかし、どういう風の吹きまわしか、今年の4月と5月は、散歩や温泉、囲碁やブログの合間に、珍しくも私の第二のふるさと”満州”に関わる以下の4冊を読破したのでした。

風の払暁 満州国演義Ⅰ』(船戸与一著・新潮社・2007年)
事変の夜 満州国演義Ⅱ』(船戸与一著・新潮社・2007年)
阿片王 満洲の夜と霧』(佐野眞二著・新潮社2005)』
阿片王一代 中国阿片市場の帝王・里見甫の生涯』(千賀基史著・光人社・2007年)


私はこれまで1928年(昭和3年)の張作霖暗殺鉄道爆破事件と、1931年(昭和6年)の柳条湖鉄道爆破事件とは同一事件で、いわゆる満州事変は張作霖の暗殺から始まったと思い込んでいたのでしたが、3年もの間があったことを初めて知りました。また、馬賊の中には日本人が、しかも大和撫子までがいたことにもおどろき、それ以上にびっくりしたのは、関東軍や中国派遣軍、そして興亜院といったわが国組織の謀略工作資金が、莫大なアヘン収入によって賄われていたということでした。

考えてみると、よそ様の土地に出かけて、その土地の無秩序さに乗じて、私たち日本人の利権を拡大するためにはどうしたって謀略という手段が必要なのでしょう。ただ手をこまねいていたのでは利権の争奪にうごめく軍閥跋扈のかの地では跳ね飛ばされるばかりですから、それに負けない権謀術策を弄する必要があったに相違ありません。そのための資金、それは蒋介石たちも同じだったのですが、頭のいい関東軍参謀たちが次々とその利権を獲得し、満州国を樹立し、汪兆銘国民政府(1940~1944)を作るところまでうまくすすめることができたのでした。


ところで、関東軍のアヘン謀略資金工作には岸信介や東条英機も深くかかわっているのでした。

1937年(昭和12年)3月、関東軍の熱河アヘンを天津で売りさばいている里見機関の里見甫(はじめ)のところに、満州国実業部総務司長の岸信介と同主計処長の古海忠之がおとずれ、関東軍参謀総長東条英機からの謝意と熱河アヘン取扱量のさらなる増大を伝えます。(千賀氏の『阿片王一代64~70ページ

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          「私は軍のためにやるのではない。満州国の掲げた建国の理想、五族協和のために、あえて魔道に入る」といっていたとか。

また、同年10月、古海忠之が甘粕正彦と椎名悦三郎を連れて里見に会いに天津まで来ます。目的は上海特務機関が満州国のアヘン政策を真似て里見にアヘン販売の依頼をしている、そのことへの牽制でした。(79~88ページ

しかし、結局は政府が興亜院という新しい部署を作ったのて、里見は軍内部の利権の争いから避けられ、上海に移って、アヘンの販路をさらに拡大することになったのでした。

熱河アヘンは関東軍が押さえているので、中支派遣の日本軍は新しくイランアヘンを輸入することになりました。

それでは、『阿片王一代』付録の年表から、イラン・アヘンの輸入についての記録を抜き出しておきます。


1 1938年(昭和13年)4月、三井物産、イランか阿片978箱をシンガポール丸にて上海に輸送

2 1939年(昭和14年)2月、三井物産、イランか阿片972箱を赤城山丸にて上海に輸送

3 1939年(昭和14年)4月、三井物産、イランか阿片1000箱を赤城山丸にて上海に輸送

4 1939年(昭和14年)10月、三井物産、イランか阿片1000箱を玉川丸にて上海に輸送

5 1940年(昭和15年)11月、三井物産、イランか阿片500箱を最上川丸にて上海に輸送

6 1940年(昭和15年)12月、三井物産、イランか阿片500箱を加茂川丸にて上海に輸送



最初のイラン阿片978箱のアヘンは70、416キロの数量なのだそうで、この膨大なアヘンを上海特務機関の首脳は藤田勇と里見甫の2人に二股かけて販売を依頼します。

その結果、藤田は6割に当たる550箱(39600キロ)を販売してその売上550万円を、里見は300箱を販売して400万円を上海特務機関に上納します。この最初のイランアヘンで軍は合計950万円、約1000万円という巨額の資金を手に入れたのでした。

なお、この藤田という人物は新聞記者出身で、満州馬賊張作霖と組んで阿片密売を行い、そこで得た巨額の利益で東京毎日新聞の経営再建を引き受け、社長に就任した人物です。アヘン販売の経験を買われて依頼され、この販売で220万円もの利益を得ています。それに比して里見の方は1割り程度の手数料しかとらず、私利私欲のない人物なので、軍は中国アヘン市場を以後里見一人にまかせ、里見は後世“中国阿片王”と呼ばれるようになったのでした。

1946年(昭和16年)、大東亜戦争が勃発し、アヘンの輸入はできなくなり、里見は宏済善堂という名目上はアヘン中毒者を更生させる組織、実質はアヘンの販売組織から手を引き、優雅な余生を上海で送っていたのですが、日本の降伏の後は、8月20日の特別機で日本にもどり、A級戦犯として取り調べは受けるものの起訴はされず、その後は他の満州に関係した人たちとは異なり、公的な職を一切せず、平凡な市井人として、1965年(昭和40)、68歳で波乱の多い生涯を閉じたのでした。

千葉県市川市にそのお墓はあり、墓石の表は岸信介元総理が揮ごうし、裏面には東亜同文書院の同窓による以下の銘が刻まれているとのことです。


凡俗に墜ちて 凡俗を超え 
名利を追って 名利を絶つ 
流れに従って 波を掲げ 
其の逝く処を知らず



其の逝く処を知らず」とは今天国なのか地獄なのかわからないという意味だそうです。彼が愛した中国人たちを麻薬漬けにした点では確かに地獄落ちですが、彼は児玉誉士夫、笹川良一といった有象無象とは違って私利私欲のために動いたのではななく、謀略資金づくりを手伝うことで、”東亜病夫”の中国がいくらかでもよくなると信じていた点、戦後は潔く贖罪の心で生きたという点でいまは天国にいるかもしれない、どうもそういう意味のようです。

なお、東条英機は1935年(昭和10年)に関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任。1937年には関東軍参謀長となり、その後は陸軍次官や陸軍航空総監、陸軍航空本部長、そして陸軍大臣を務めますが、大臣になってからも対満州事務局総裁を兼任し、満州のアヘン利権に深くかかわりつづけた人物のようです。



 (「歴史は小説よりも奇なり」というが、今度は甘粕正彦と石原莞爾を読んでみようと、にわかに読書づく ネズミ)

≪参考≫
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8C%E8%A6%8B%E7%94%AB
http://art-random.main.jp/samescale/069-1.html
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by damao36 | 2008-06-10 17:57 | 政治 | Comments(0)

しつかりもの食う中華の人々

産経新聞・中国特派員の福島香織さんの記事は、記者自身の目で耳で、直接見たり聞いたりしたことを、、ときに私のような“媚中派”は無意識に黙殺してしまう中国の暗部を鋭く突いて、本当は読むのに勇気がいるのですが、でもなぜか、いつも愛読しているのです。

6月5日の「被災地からもどってきて②被災地のもの食う人々の強さ」は、中国の大地で生きる人たちの姿が伝わり、私にとっては感動のリポートでした。


その書き出し部分の一部を掲げておきますので、ぜひみなさんもお読みください。

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中国の被災者は本当に元気にうまそうにごはんを食べているのだ。さすが挨拶が「ごはんたべた?……(チーファンラマ?)」というような、「民以食為天」の国だ。
そして、必ずいくらこちらがことわっても、食べろ食べろといって、はなしてくれない。本当に、断り続けると、「きたなくないよ」と不機嫌そうになるものだから、結局いただいてしまう。そして、つくづく、この人らは強い、生命力が段違いだ、と思うのだ。被災者からメシをめぐんでもらうけしからん記者と思われるかもしれないが、一緒にご飯を食べて初めてわかることもいっぱいある。こちらも、次に訪れるときは新鮮な果物とかを差し入れるようにはしているし、許してもらおう。




http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/entry/598628/

             (朝食抜きで、コンビニにたむろする茶髪の日本の若者たちが”貧相”に見える 偏見ネズミ)
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by damao36 | 2008-06-10 10:57 | 中国語 | Comments(0)

今年はラッキー数字の「8」なのに

前回ブログで、池田光さんの『中国運命学入門』から、次の一節を引用して、中国的ものの考え方を紹介しました。

 中国のものの考え方は非常に集合論的である。集合論と言って分かりにくければ、二者択一的だと言ったらいいかも知れない。たとえば運命学でものを考える場合、吉か凶かは常に絶対的にはっきりしている。……凶と出た人はどうなるのか。……駄目なものは駄目だと言ってそれでお終いである。簡単に言えば、運の悪い人はどうしようもないということにつきる。


ところで、中国は今年の北京オリンピックを契機にさらなる発展を願ってでしょうか、共産政権にも関わらず、伝統的な俗信に基づいて「8」という数字の縁起を担いで、オリンピックの開催時刻を2008年8月8日午後8時と決めたのでしたが、皮肉にも「8」のつく今年は次々と中国にとっては未曽有の災害・災難が降りかかっています。


こうした一連の“事件”を踏まえて、いま中国語インターネットの掲示板には、”「8」の偶然の一致”という表題で次のような書き込みがなされているということを、住友商事総合研究所 中国専任シニアアナリストの北村豊さんが紹介していました。

その記事は「四川大地震で浮上した“2008年例外説” 08年8月8日8時・・・「8」はラッキーな数字?」というタイトルで、日経ビジネスなどに発表されております。これを読むと、偶然の一致かどうかわかりませんが、今年の「8」という数字は、以下のように中国にとっては本当にどうしようもないことばかりがつづいています。

[1] 四川大地震の発生日である5月12日は、北京オリンピックの開幕日である8月8日から逆算するとちょうど88日目に当たる。

[2] 1月25日の雪害、3月14日のチベット暴動、5月12日の四川大地震。これら月日の数字を足し算してみると、1+2+5=8、3+1+4=8、5+1+2=8となり、合計はすべて8となる。

[3]「 四川」という漢字の画数の合計はちょうど8になる。

[4] さらに、「四川」という2文字には「八」という文字が2個含まれている。 
<筆者註:「四」に「八」があることは明白だが、「川」は真中の縦棒を除くと「八」ということなのだろう>

[5] 四川大地震が発生した5月12日は旧暦の“四月初八”に当たる。
<筆者註:旧暦の四月初八はお釈迦様の誕生日である。日本では新暦の4月8日をこれに当てているが、韓国では旧暦の四月初八は“釈迦誕生日”で祝日である>

[6] 四川大地震のマグニチュードは8.0であった。
 <筆者註:中国政府地震局は5月18日付で、当初7.8と発表していた四川大地震のマグニチュードを8.0に修正した>


 上記の[3]、[4]、[6]はこじつけと言ってよいと思うが、[1]、[2]、[5]は偶然の一致とは言え何か因縁めいたものを感じさせる。吉祥の数字で本来は縁起の良いはずの「8」が、これだけ悪い事件に関連付けられると不吉なものを感じるというのも頷ける。


それでは詳しくは北村豊さんの以下のサイトをご覧ください。http://deracine69.exblog.jp/8170290/


ところで、今年のこのような現象を中国運命学ではどう理解するのでしょうか。

私はまだ4分の1しか読んでいないので、いや、たとえ全部読んだとしても、池田光先生のお話では中国運命学は独学で修得するほど簡単ではないということです。だから、ここは著者の池田先生に聞くしかないようです。


でも、前回ブログで書いたように運命学というのは天変地異とは無関係なのだそうです。交通事故も地震も「これはただの災難にすぎない。……こうした異常事態にあっては運命学でいう”命”も”行運”も作用しないものである」(○ページ)と書かれていました。

また、「あとがき」で、池田先生はこうも述べられています。

つまり、人間の生活というものは、一般的に何かがよければ、何かが悪くなるものなのである。……この世の問題は、すべてにまず目的を考えないといけない。

中国五術運命学の使い方もこうしたものだと思えば間違いない。……その(運命学)方法は……命で自分を知り、卜で開運を図ること、そして相で現在の状態を確かめ、いい方向を整えることである。

こうした運命学は、完全に自分の一生の設計図となり、地図となり、道案内となり、我々の行く手を照らしてくれるものである。 (220ページ) 



今年のオリンピックがとなるのか、となるのかわかりませんが、私はやはり選手たちのこともありますが、中国がより開かれた国になるためにも、となってほしいと、まだ思っています。

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  (余生を占いとして迷える善男善女のために街に出て占いを始めようかと考えている 予知能力抜群のネズミ)
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by damao36 | 2008-06-06 19:58 | Comments(0)