カテゴリ:社会( 6 )

皇軍慰安所はこうして生まれた

 船戸与一さんの満州国演義Ⅲ『群狼の舞』(新潮社・2007)を読みおえました。舞台は関東軍の熱河侵攻、満州開拓移民がはじまるころ、昭和7,8年ごろで、私が生まれる11年よりもまだ前の話です。この満州国演義まだまだつづくのでしょう。

ところで演義Ⅱの『事変の夜』で、この小説主人公4人の中の1人敷島四郎がイギリス人ユダヤ系の親日派記者からこんなことをいわれる場面があります。

「わたしは日本に期待している。完全に東アジアを抑えてもらいたいと願っている。そのためには支那人の恨みを最小限に押さえなきゃならない。わかるでしょう、どこの国でも兵士はみな若く、凶暴です。とくに血腥い戦闘のあとはだれでもが女を欲しがる。わたしは海軍陸戦隊の兵士たちが民家に押し入り凌辱したという話をずいぶん聞いています。陸軍が上陸して来たら、そういうことはかならず頻発するようになる。支那人の日本人にたいする反感は取り返しのつかないものになりますよ。それは日本の植民地経営の重大な阻害要因となる」

(以後11行省略)

「金銭儲けが目的じゃないんです。支那人の強烈な恨みを買うことなく兵士の性欲を処理するための施設です。こういう仕事は売春宿の経営者には無理だ。イギリスにこういう諺があるのを御存じですか?仕事が穢ければ穢いほど、それをきちんとこなすには教養が要る。つまり、あなたのような知性が必要です」』 (『事変の夜』391~392ページ


どうしてここにユダヤ人が出てくるのか不思議ですが、いまや特務機関のあやつり人形になってしまっている四郎は、数ヶ月間、上海にできた軍人相手の慰安所の管理人となり、今後のデーターとなる営業実績を報告することになります。


ところで、演義Ⅲ『群狼の舞』では四郎の二番目の兄で、今は手下を失った満州馬賊の元欖把・敷島次郎が、天津領事館の門倉吉文と小料理屋で会う場面があります。次郎の兄敷島太郎は奉天領事館の参事官で、この門倉は兄の後輩です。この領事館は次郎に奉天領事館の兄についてこんな話をします。

「奉天の敷島参事官は承徳に進駐する第十六旅団への食糧補給に駈けずりまわったでしょう。しかし、もっと厄介な問題が持ちあがったんです」
「何です、それは?」
「第十六旅団の兵士たちは兵站欠乏の煽りを受けて、食糧の現地調達に走りまわったんです。そのとき、あちこちで強姦事件が発生した。それで、遠藤三郎作戦主任参謀は満州国にたいして娘子軍五百名を前線に送れと打電したんですよ。おわかりでしょう、この場合の娘子軍とは維新のときの会津若松で官軍と戦った会津藩の武士の娘なんかじゃない、ずばり商売女だ。満州国だけじゃそういう女を集めるのは到底無理ですから奉天領事館もその任に当たった。外務官僚はそんなことは慣れてませんからね、敷島参事官も大変だったと思いますよ」
「それで送られたんですか、五百名の娘子軍を承徳に?」
「もちろんですよ。満州国だけじゃあない、日本の運命が掛かってるんです。先月の二十七日に日本は正式に国際連盟から脱退したでしょう、こんなときに強姦事件の頻発を食い止められなかったら国際世論から轟然たる批難を受ける。満州国国務院も奉天総領事館も必死になった。その結果、何とか五百名の醜業婦を錦州に集めて列車で北票に運び、そこから関東軍差しまわしのトラックで承徳に送りこんだ」』(『群狼の舞』376ページ



さて、私はいままで従軍慰安婦問題については、ニュースで聞いたり、新聞を読む程度で、わが国にどうしてそのような兵隊相手の商売ができたのか考えたことはありませんでしたが、船戸さんの小説を読んで、そういう組織を設けることもそれなりに必然性があったんだなあと思いました。

国会では「軍の直接的関与があったか、なかたか」が問題になっつていたようですが、決着はどうなったのでしょうか。




≪追記≫
船戸さんの本は小説ですから、主人公の敷島家4兄弟はフィクションでしょうが、時代背景や時代を動かす人物などは史実に忠実に書かれているのではないでしょうか。

ネットで見ると、慰安婦問題について軍だけでなく領事館や警察署も協力して、「”女衒”の真似事」をしたと思わせる文献が載っていました。

 皇軍将兵慰安婦女渡来ニツキ便宜供与方依頼ノ件

 本件ニ関シ前線各地ニ於ケル皇軍ノ進展ニ伴ヒ之カ将兵ノ慰安方ニ付関係諸機関ニ於テ考究中処頃日来当館陸軍武官室憲兵隊合議ノ結果施設ノ一端トシテ前線各地ニ軍慰安所(事実上ノ貸座敷)ヲ左記要領ニ依リ設置スルコトトナレリ
        記
領事館
 (イ)営業願出者ニ対スル許否ノ決定
 (ロ)慰安婦女ノ身許及斯業ニ対スル一般契約手続
 (ハ)渡航上ニ関スル便宜供与
 (ニ)営業主並婦女ノ身元其他ニ関シ関係諸官署間ノ照会並回答
 (ホ)着滬ト同時ニ当地ニ滞在セシメサルヲ原則トシテ許否決定ノ上直チニ憲兵隊ニ引継クモトス
憲兵隊
 (イ)領事館ヨリ引継ヲ受ケタル営業主並婦女ノ就業地輸送手続
 (ロ)営業者並稼業婦女ニ対スル保護取締
武官室
 (イ)就業場所及家屋等ノ準備
 (ロ)一般保険並検黴ニ関スル件
 
右要領ニヨリ施設ヲ急キ居ル処既ニ稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナルカ之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ルニ付乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度尚着滬後直ニ就業地ニ赴ク関係上募集者抱主又ハ其ノ代理者等ニハ夫々斯業ニ必要ナル書類(左記雛形)ヲ交付シ予メ書類ノ完備方指示シ置キタルモ整備ヲ缺クモノ多カルヘキヲ予想サルルト共ニ着滬後煩雑ナル手続ヲ繰返スコトナキ様致度ニ付一応携帯書類御査閲ノ上御援助相煩度此段御依頼ス

(中略)

昭和十二年十二月二十一日

                在上海日本総領事館警察署13)



また、『皇軍慰安所とおんなたち』(峯岸賢太郎・吉川弘文堂・2000)という本も出ているのですね。その本の中には、まだ確かめてはいませんが、陸軍経理学校で軍慰安所設置方法を教えてもらったというような思い出話を、元サンケイ新聞社社長の鹿内信氏が元日経連会長桜田武氏との対談でしているのだそうです。その話とは、以下のようなことです。

鹿内「(前略)これなんかも軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地へ行きますとピー屋が・・・。」
桜田「そう、慰安所の開設。」
鹿内「そうなんです。そのとき調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“待ち時間”が、将校は何分、下士官は何分、兵は何分・・・といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要項」というんで、これも経理学校で教わった。この間も経理学校の仲間が集まって、こんな思い出話をやったことがあるんです。」
(桜田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史』上巻 サンケイ出版 1983年)

「ピー屋設置要項」というのは正式には「慰安所設置要項」あるいは「特殊慰安施設設置要項」であろう。
経理将校になるものは軍慰安所の設置・管理の仕組みまで教え込まれていたのである。
まさに軍慰安所のための万全の態勢が取られていたといわなければならない。



 (橋下徹知事の発言で慰安所問題が再燃しています。上記の記事は私が2008年7月に書いたもので、書いた本人も忘れていましたが、なるほどと思い、再掲することにしました。)
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by damao36 | 2013-05-17 21:58 | 社会 | Comments(0)

「絆」字考―「きずな」ならいいが、「絆」はよくない

 2011年を表す漢字は「(きずな)」でした。

 多くの日本人がこれまでは用いる事のまれであったこの字にある種の親しみを覚え、年賀状とか、子供の名前とか、いや政党名まで出てきそうな様子です。

 漢和字典の『漢字源』を引くと、「①きずな。ほだし。ア牛馬などの足をつなぐなわ。イものをつなぎとめるもの。自由を束縛するもの。『羈絆』 ②ほだす。つなぐ。つなぎとめる。」とありました。熟語は「絆創膏」のみでした。下付き熟語には「脚絆」(江戸時代の旅装「手甲脚絆」。日本陸軍が足に巻いていたゲートル)が出ていました。

 「きずな」を『広辞苑』で引くと、「①馬・犬・鷹など、動物をつなぎとめる綱。梁塵秘抄『御厩(ミマヤ)の隅なる飼ひ猿は―離れてさぞ遊ぶ』  ②断つにしのびない恩愛。離れがたい情実。ほだし。係累。繋縛。平家一○『妻子といふものが、…生死(シヨウジ)に流転(ルテン)する―なるが故に』。『夫婦の―』」とありました。

 今、私たち多くの日本人がこの「」という漢字から思い起こす意味はもっぱらこの②の「断つにしのびない恩愛。離れがたい情実」、そういう意味で持ちいているのでしょう。


 さて、漢字の本家中国ではどうなのでしょうか。

 『OXFORD CONCISE Chinese-English Dictionary』(牛津精选 汉英词典)を引いてみました。(日本語は引用者)
  (动)(cause to) stumble; trip; 绊手绊脚 be in the way.(邪魔になる。手足まといになる) 绊了一跤Tripe over sth.(つまずいて転ぶ)

 『现代汉语词典』を引くと、この親文字の下の熟語は「绊脚石」(足かせ。足払い)「绊马索」(敵の馬を引っかけて倒す張り縄)「绊儿」(足かせ。足払い)「绊手绊脚」「绊子」(足かせ。足払い)と5つだけで、『広辞苑』②の意味の熟語は見当たらず、どうもこの「」の字を「断つにしのびない恩愛。離れがたい情実」=「きずな」と解釈するのはわが国での転用、そんな感じがしてきました。


 今朝の新聞によると、民主党を離脱した人たちの新党名は「きずな」にするのだとか。「“きずな”党ならいいですが、“”党と漢字では書かない方がいいですよ」、私の忠告が聞き入れられるのなら、そう忠告したくなりました。(それなら漢字でどう書いたらいいのでしょうか。“紐帯”党でしょうか?)

     (「菅」と言う字を漢和辞典で引いたら、④番目の意味に「わたくし。よこしま。姦。」とあるので、「菅には
      “姦”の意味もある
」と前首相に忠告したのでした。しかし、無視され、今や私はこの人のことを“奸・姦”
      直人
と呼んでいる 漢字にこだわるネズミ)
          

≪参考≫http://damao36.exblog.jp/11281679/(菅には“姦”の意味もある)
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by damao36 | 2012-01-01 16:15 | 社会 | Comments(0)

179ー名詞述語文―N文

 英語には名詞述語文というのはありませんが,中国語は日本語と同じで述語が名詞で構成されている文があります。

 日本語の場合は「~は~である」という「主格+動詞+判定詞(「~である ~だ ~です ~でしょう」など)の文型で,「は」「である」などの助詞や判定詞がつき,名詞ばかりではありません。中国語の場合は完全に名詞だけを並べた文が主になります。

 日本語の名詞述語文の典型は「AはBである/だ/です」の構文です。文末の「~である」は補助的用言(<助動詞+補助動詞>),「~だ」は断定の助動詞,「~です」は丁寧な断定の助動詞で,動詞はありません。ところが,この文を中国語に訳して“A是B”としてしまうと,中国語の判定詞“是”はりっぱな動詞ですから,動詞述語文になってしまいます。(§9-1 「“是”―中国語のbe動詞」参照)

 中国語名詞述語文の典型例は二つの名詞AとB(それ以上もありますが)を並べた,“A・B”という構文になります。

 ところで,ある事柄Aについての未知の情報を一つの名詞Bをいうことで,必要十分な情報となる話題というのはどのようなものなのでしょうか。

 中国語の名詞述語文の解説では,「時間・日付・天候、年齢・職業・出身地、金額・数量・人柄」などについて尋ねたり,答えたりするときに用いると書かれています。まさにそのとおりです。ただ,上記の「」内を暗記しようとするのはいかがなものでしょうか。

 「ある事柄Aについての未知の情報を一つの名詞Bをいうことで,必要十分な情報となる話題」のときに用いられるのだと理解しておけば,自然にそれは時間・日付・天候、年齢・職業・出身地、金額・数量・人柄などの話題だったということになるのではないでしょうか。

 なお,未知情報のBは単純化して説明するために名詞だと書きましたが,名詞以外の品詞である代詞(代詞の中の指示代詞など名詞性の代詞),数詞,数量詞(数量詞連語),“的”連語がきます。(日本語では代名詞も数詞も量詞もみな名詞とみなしていますが,中国語の代詞,数詞,量詞えぞれ独立した品詞です。)

それでは日本語と中国語の名詞述語文の構造を見てみることにします。

(日本語)  今 何時ですか。    今   6時です。 
       (主語)   (述語=名詞+助動詞)            (主語)       (述語=名詞+助動詞)       
         Xiànzài   jǐ diǎn。            Xiànzài  liù diǎn。
(中国語) 现在   几 点。      现在 6 点。 
       (主  語)      (述語=名詞)              (主語)     (述語=名詞)
(英 語)  What time  is it?   It is six (now). 
        (補           語)     (動詞)  (主語)     (主語) (動詞)  (補語)  (副詞)

 日本語の「いま6時です。」は中国語では“现在6点。”となります。語順も同じで,ともに名詞述語文です。違うところはというと,日本語の述語「6時です」は<名詞+丁寧な断定の助動詞>と判定詞ともいわれる助動詞の助けがあるという点です。中国語はこうした付属語の助けを必要としません。(日本語の「今」,中国語の“现在”,異説もありそうですが,主語としておきます。)

 英語の場合には時間語は主語になることができません。ダミー主語“it”がどうしても必要になります。現在形でいっているのですから,時間語の“now”は必要ではありません。もし入れるとしたら,おまけの副詞として最後になります。述語はbe動詞ですから,動詞述語文です。


 それではこのN型群だけの会話例文を挙げておきます。

1 现在中午吗? Is it noon?(今お昼ですか。)
  已经中午了。 It’s past noon already.(もうお昼ですよ。)
2 今天几月几号? Whate is the date today? (今日は何月何日ですか。)
  今天十月一号。  Today is octhober first. (今日は10月1日です。)
3 昨天星期几? Whate day of the week is today?  (きのうは何曜日でしたか。)
  昨天星期四。Yesterday is Thursday.  (昨日は木曜日でした。)
4 你几岁? How old is your son? (君いくつ。)
  我八岁。 I am eight.  (八つです。)
5 王先生,你多大年纪了? Mr.Wang, how old are you? (王さん、おいくつですか。)
  我今年三十一岁。 I am thirty one year old. (今年31です。)
6 小姐,这个多少钱? Miss, how much is this? (おねえさん、これいくら。)
   两百二十块三毛。 Two handred twenty-three yuan. (2百20元30銭です。)


 上記の例文は,1が時間,2と3が日付,4と5が年齢,6と7が金額の例でした。以下に天候、職業、出身地、数量、人柄の例を挙げておきます。
<天 候>  今天晴天。  It is fain today.(今日はいい天気です。)
<職 業>  他驾驶员。 He is a driver.(彼は運転手です。)
<出身地> 他日本人。 He is Japanese. / He is from Japan.(彼は日本人です。)
<数 量>  我体重七十公斤。 My weight is 70 Kilogram.(私の体重は70キロです。)
<人 柄>  她慢性子。 Shi is a slowpoke.(彼女はのんびり屋だ。)
         他坏人。  He is bad person.(彼は悪人だ。)

 上記の例文はすべて“是”を補うことができます。また,上記の例文を否定形でいうとしたら,“不是”を補います。例えば「いま6時ではありません。7時です。」といいたいなら,“现在不是6点, 是7点。”というようになります。この場合は動詞“是”が使われているので,当然動詞述語文です。ということは,名詞述語文には否定形はないということです。


 中国語は英語同様配置の言葉です。ですから,名詞を二つ並べ,その意味関係を考えれと,その二つの語句の意味関係が推測されます。後に述べた語句が前に述べた語句の未知情報を補うものだとすると,そこに一つの意味をもつ情報伝達が成立します。

 こうして見ると,中国語の名詞述語文と言うのは,“A是B”という情報発信表現の動詞“是”を省略した言い方だと見ることができます。丁寧に,あるいは強調していうときには動詞“是” をいうことになります。(“是”だけでなく,“有”などを補う場合もあります。)

 日本語の場合も,いつも「AはBです」というとは限りません。例えば親しい間柄とか,急いでいるときたかに,「今何時」と聞き,「今6時」と答えることはよくあります。ただ,一音節語の多い中国語の場合は日本語に比べると省きやすいはずです。多音節語の日本語は省略する音節数が多いだけに,また文末で締める言葉ですから,「~は~です」を省くと,雑なもの言いという印象が強く感じられます。中国語は上記の「時間・日付・天候、年齢・職業・出身地、金額・数量・人柄」などについて会話では常套化され,雑なもの言いという印象はほとんどないものが多いようです。


 中国語の名詞述語文は“A是B”の“是”の省略形だと述べましたが,補うとしたらそれ以外の語の場合もあります。以下その例です。

1 我家五口人。 There are five people in my family.(わが家は5人家族です。)
2 一斤两百元。  W(1斤2百円です。)
3 白菜两斤, 萝卜三斤。W(白菜2斤,大根3斤。)
4 这药每天三次。  This medicine is to be in three separate dose every day.(この薬は毎日3回です。)

※ 1は“是”でもいいが,“有”でも通じます。2は売り手なら“卖”,買い手なら“买”。3は買い手で,“买”。
  4は“吃”,丁寧にいうと“这药每天分三次吃”。
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by damao36 | 2011-03-07 18:49 | 社会 | Comments(0)

多喜二、大杉―拘束数時間後の死

今、小林多喜二の『蟹工船』がワーキングプアとの関連でよく読まれているというので、遅ればせながら私も読んでみました。感想は前回のブログ「なぜ今『蟹工船』なのか」で書いたように、「いまどきのわけのわからない芥川賞受賞作品よりは筆力もあり、真摯な作品」というものでした。

小林多喜二ってどんな経歴の人なのかと、後ろについていた年譜を見てみたら、その没年の記事には以下のように書かれていました。

昭和8年(1933)30歳
2月20日正午過、赤坂区福吉町付近で街頭連絡中、今村恒夫と共に築地署特高課長に逮捕され、7時前後、同署内で警視庁特高課員の残忍を極めた拷問のため殺される。検事局、警視庁は死因を心臓麻痺と発表し、死体の解剖を妨害して死因の究明を妨げた。23日、自宅にて告別式。同日杉並区堀之内火葬場にて火葬。小樽市奥澤共同墓地に葬られる。3月15日、築地小劇場で全国的な労農葬が行われ、国内外からの抗議、弔辞多数寄せらる。 (手塚英孝編「小林多喜二全集」年譜)


築地署内でどのような残忍を極めた拷問を受けたのかはわかりませんが、正午過ぎに逮捕されて、その日の夜の7時前後に死んだというのはやっぱりとっても不自然なことでしょう。心臓麻痺ということですが、死因の究明のための解剖も妨害したとは、当時の警察権力は、いまではとても想像できない、人権無視もはなはだしいものだったのだなあ、と思いました。


この年譜を見て、私はちょうどその前に読んでいた太田尚樹氏の『満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』(講談社・2005)の大杉事件のところを思い出しました。

大杉事件とは多喜二の死のちょうど10年前、大正12年(1923)の9月16日に、憲兵太尉甘粕正彦が無政府主義者の大杉栄、その妻の伊藤野枝、さらに彼らの5歳の甥っ子橘宗一を、東京憲兵隊司令部応接間で殺害した事件のことです。なお、この半月前の大正12年(1923)9月1日は関東大震災が発生した日で、首都圏は戒厳令が引かれていた異常事態でした。

この大杉栄殺害の直前場面を太田氏は以下のように書いています。

 ……麹町憲兵分隊に着いたのは、6時半だった。 
 それから甘粕らは、大杉たちを同じ建物の階上にある、東京憲兵隊本部の隊長室へ連れてゆき、夕食にてんやもんを取って食べさせた。……。
 時計が8時を回った。森曹長が隊長室に顔を出して、「大杉、ちょっと来てくれ」と、呼びに来た。このとき、うなずいて立ち上がった大杉の横顔を、不安を打ち消そうとする野枝の作り笑いと、宗一の無邪気な笑顔が見送った。

 先に憲兵隊司令部の応接室に入った森曹長は、テーブルの向こう側の椅子に腰掛けると、すかさず、大杉をドアを背にして座らせた。
 硬い表情で無言のままだった森憲兵曹長が、おもむろに口を開いた。
「大杉、お前さんを随分探していたんだ。震災のあと、どこにいた」
 大杉はただニヤニヤするばかりだったが、ややあってから「あんたらも忙しかったみたいだが、こちらもいろいろあってね」と、人を食ったような返答をした。
「ほ、そうかい」
 両者の短い会話が途切れたときだった。急に応接室のドアが開いて、つかつかと男たちが入ってきた。 (89~90ページ) 


この場面はここで終わっていて、そのあと、調書や公判で甘粕自身がこう陳述していると甘粕の言葉を引用しています。

「私はただちに背後から近寄り、右の前腕部を大杉の咽頭部に当てると、左手首を右の掌に握り、後ろに引きますと椅子から倒れましたから、右膝頭を大杉栄の背後に当て、柔道の絞め技で絞殺いたしました」

甘粕自身は甥っ子殺害は否定したとのことですが、とにかく憲兵隊の中枢部で順次このように殺害され、3名の死体はその後、兵に手伝わせてこも包みにして、憲兵隊構内にある古井戸の中に投げ入れて上からレンガで埋めたのだそうです。


まったくやくざ映画ででも見ているような行為ですが、むかしの憲兵隊とかは本当に平気でこんなことをやっていたのでしょうか。

そのような殺害行為をした甘粕正彦は懲役10年の判決を受けますが、3年あまりで仮出所し、夫人とともに外遊したのち、満州に渡り、満州映画会社の理事長として権勢をふるいます。そして”満州の夜の帝王”とまでいわれたというのですから、摩訶不思議な話です。甘粕個人でこのようなことをしたのか、できたのか、太田氏も疑問を呈した書きぶりです。

昨年でしたか、鹿児島県志布志市の選挙違反事例で、家族の名前を踏ませる取調べをしたということで、大騒ぎになり、取り調べた刑事に有罪判決が出て、その刑事は退職金も差止めされて懲戒免職になったニュースがありました。警察庁も取調べの可視化などというのを発表したりしていましたが、そうなるとこれからの刑事さんは取り調べに苦労するなあと同情していたのですが、国家権力、警察権力というのはやっぱりそれくらいしないと油断のならないものなのでしょうね。


なお、『蟹工船』には日本の船団をロシアから守るために帝国海軍の駆逐艦が航行するのを雑夫たちがたのもしく眺める、そんな場面があります。しかし、雑夫たちのストライキがうまくいったと思ったとき、駆逐艦から水兵たちが乗り込んできて、あっさり鎮圧されます。この場面、私は中国天安門事件を連想しました。「人民の軍隊が人民に発砲するはずはない」、純粋にそう思っていた学生たちに解放軍が発砲します。

国家と国民の関係、必ずしも親子の関係みたいではないのですね。


      (日本の近現代史を勉強したらますます”自虐史観”にはまり込む、勉強の仕方をしらない 阿呆・ネズミ)
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by damao36 | 2008-07-06 08:03 | 社会 | Comments(0)

「北帰行」、舞台は満州

小林旭は私より1歳下ですが、デビユー時代からどういうわけか、石原裕次郎よりも旭の方が私は好きでした。彼の歌も好きで、「さすらい」、「北帰行」は男の哀愁とでもいうのか、なんともいえないいい歌です。
http://jp.youtube.com/watch?v=VdjQyqdYoec(小林旭の「北帰行」)
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/hokukiko.html(寮歌としての「北帰行」)
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/08/post_bebd.html(「さすらい」)


ところで、この「北帰行」、宇田博の作詞・作曲とのことです。彼は奉天一中で四修で旧制一高を受験しますが、失敗し、関東軍参謀の石原莞爾が満洲国に創設した建国大学に夢を託して入学しますが、半年で退学となり、昭和15年 (1940年)、開校したばかりの旧制旅順高等学校に入学しなおします。しかし、戦時体制下の同校にも宇田の望んだバンカラで自由な校風は存在せず、寮の娯楽室の壁に「生徒は一流、校舎は二流、校長、教師はみな三流」と落書したりして、生活指導の教官に目を付けられ、翌年5月、デートから戻ったところを教官に見つかり、"性行不良"で退学処分となりました。彼が同校への訣別の歌として友人たちに遺した歌が、この北帰行だそうです。学校の認める正式の寮歌ではありませんが、広義の寮歌として歌われたのだそうです。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/hokukiko.html

なお、佐高信さんが郷里山形の英雄的存在、石原莞爾を批判的に書いた『黄沙の楽土 石原莞爾と日本人が見た夢』(朝日新聞・2000年)では、建国大学の寮歌となっています。


それはともかく、寮歌としての歌詞には旭の歌では省かれている、次の1節があり、宇田の青春時代と重なります。

建大 一高 旅高
追われ闇をさすらう
汲めど酔わぬ恨みの苦杯
嗟嘆 ほすに由なし


ところで、宇田が最初に入学した建国大学は石原莞爾の「アジア大学」構想に端を発し辻政信により原案が作成され、関東軍によって敷地の確保・設立がなされ、1938年5月、満州国の首都新京(長春)に開校した大学です。Wikipediaでは、その概要を以下のように説明しています。
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本科(政治学科・経済学科・文教学科)と予科・研究院が置かれ、官費により学費は無料であった。また、全寮制で日本系・満州(中国)系・朝鮮系・蒙古(モンゴル)系・ロシア系の学生が寝食を共にし寮を「塾」と称した。

形式上は国務総理大臣が建大総長(学長)を兼任したが、建大の実質的な責任者は副総長であった。民族協和の実践を目指したが満州国と同様の矛盾を抱えていた。

例として校門には満洲国旗を掲揚していたが、制定された法律により日本国国旗を同時に掲揚せねばならなかった。他にも配給された食料である高粱と米は、支那人に高粱、朝鮮人に高粱と米、日本人に米が配給されるなど、枚挙に暇が無い(これらは学生らによって批判が噴出し、互いに混合し高粱米として食すこととなった)。

とはいえ学問については比較的自由であり内地では禁書扱いであった資本論など、共産主義に関する書物も回し読みされていた。戦争が激化すると治安維持法が改正され、反満抗日活動を行った中国人学生は検挙され、また日本人学生は学徒出陣で兵員徴収された。

同期が減っていく中、荒涼とした建大の敷地に日本人学生が植林をはじめ、終戦直後、残っていた学生らによって大学の蔵書が整理され目録が作製され、中国の図書館に寄附されている。日本人だけでなく、これら運動には満州人、支那人が参加した。

建大出身者には満州国崩壊後にシベリア抑留に遭った者、文化大革命で迫害された者など悲劇的な運命をたどった者も少なくない。一方、朝鮮人では、元韓国国務総理姜英勳など後の大韓民国で大いに活躍した政治家は多い。また、建大出身者は塾で存分に議論をしたためか真に仲が良く、国籍問わず交遊があり、戦後もその交遊は一部で続いている。



ああ、「涙流れてやまず」、「嗟嘆ほすに由なし」、「恩愛我を去りぬ」、「尽きぬ未練の色か」、「あすは異郷の旅路」、こういった歌詞と曲が一体となるみんなで歌える青春の歌、いまの若い人にあるのでしょうか。


       (歌はやっぱり文語調の寮歌に限る、旧制高校生を限りなく美しく切なく空想する 復古趣味ネズミ)
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by damao36 | 2008-06-14 20:30 | 社会 | Comments(0)

「昭和の日」は軍歌がにあう

4月29日が「昭和の日」となっているのにはじめて気づき、その日のNHK歌謡番組で「異国の丘」を聴き、その日の記録として「昭和の日―『異国の丘』を聞いて」というブログを書きました。

最近You Tubeなる便利なものがあることを知り、ひょっとしてこの「異国の丘」も動画で見れるのではないか、そう思って調べてみたら、ありました。その前後になつかしい軍歌もありました。

そこで、私の好きな軍歌ベスト10をアップしてみようと、時代順にならべてみました。8つまでアップしました。

http://www.youtube.com/watch?v=T3GhA0xmecw&feature=related(戦友・?)
http://www.youtube.com/watch?v=5XXggeAttdw&feature=related(父よあなたは強かった・?)
http://www.youtube.com/watch?v=vn2OgHd99GE&NR=1(麦と兵隊・1938)
http://www.youtube.com/watch?v=lzpjBdxz5io&feature=related(露営の歌・1937)
http://www.youtube.com/watch?v=2CpcztEOSrs&feature=related(愛国行進曲・1937)
http://www.youtube.com/watch?v=7WOVJbs4pOM&feature=related(暁に祈る・1940)
http://www.youtube.com/watch?v=B_YWPf7LGhM(ラバウル小唄・太平洋戦争期)
http://www.youtube.com/watch?v=9hkoI_r3MLM(異国の丘・戦後)


幼稚園生のころに、一生に一度だけですが、みんなの前で一人で歌って遊戯した下の歌、見つかりませんでした。
 ぼくは ぐんじん だいすきよ
 いまに おおきく なったなら 
 くんしょう つけて けん さげて 
 おうまに のって ハイ ドウ ドウ
 



軍歌と行っても、勇ましいのは個人的には好きになれないのですが、でも聞いているとなつかしいですね。
http://www.youtube.com/watch?v=I5rgSB1QkFw&feature=related(嗚呼!同期の桜)
http://www.youtube.com/watch?v=2WufyOlm35o&feature=related(歩兵の本領)
http://www.youtube.com/watch?v=ZMj9qqAoZAs&feature=related(荒鷲の歌)
http://www.youtube.com/watch?v=sSp_BrnJ7rY(若鷲の歌)
http://www.youtube.com/watch?v=QcUHmpgWZMA&feature=related(加藤隼戦闘隊)
http://www.youtube.com/watch?v=X-0PYV7EBkI&feature=related(ラバウル航空隊)
http://www.youtube.com/watch?v=fFJYSHnMM6Q&feature=related(月月火水木金金)
http://www.youtube.com/watch?v=UH3gZlewu7o&feature=related(太平洋行進曲)


なつかしい「満州国国歌」もみつけました。五族協和の王道楽土にふさわしく、ゆったりとした調べで、歌詞も格調高く、なかなかの名曲ではないでしょうか。
http://www.youtube.com/watch?v=NprDVmFaHU4&feature=related(1933年 作詞鄭孝胥、作曲高津敏・園山民平・村岡楽童合作)
(歌詞)
天地内有了新滿洲
新滿洲便是新天地
頂天立地無苦無憂
造成我國家
只有親愛並無怨仇
人民三千萬人民三千萬
縱加十倍也得自由
重仁義尚禮讓
使我身修
家已齊國已治
此外何求
近之則與世界同化
遠之則與天地同流


                   (近ごろはやたらと過去がなつかしくなる 期高齢者 ネズミ)
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by damao36 | 2008-05-01 18:47 | 社会 | Comments(0)